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いのちが輝くということ(5)「老母と読む聖書」

 筆者の母親はサービス付き高齢者向け住宅という名称の集合住宅に住んでいる。筆者にとっては義理の父母も含めた4人の親の中で最後に残った親である。満91歳になる。

 年齢相応に心身の諸機能は低下しているので、話すこと、やることにつき合っていくのも、正直、なかなか骨が折れる。

その母の元に仕事を終えたあと、できるだけ面会に通っている。

 今年の初めから行く度に二人で聖書を読むことにした。旧約聖書の創世記から読み始めて現在はレビ記8章まで来た。今年も上半期が過ぎたが、創世記から通して100章程進んでいるということは、二日に一度のペースで読んでいることになる。

 母には眼の衰えや耳の衰えがあるので、私が読み聞かせているが、どこまで聴いているのかは疑問である。途中で時計を気にしたり、あたりを見回したりで集中しているとは思い難いこともあるが、それらは無視して読んでいる。

 私はクリスチャンホームで育ったので、母もクリスチャンである。しかし、母の口からこぼれる台詞は、「聖書は誰が書いたんだろうね」、「日本語に訳するのは大変だったろうね」、「ヘンなことが書いてあるね」。

こういう感じで、こちらが期待するような信仰的な返事はない。神様にすべてを委ねているとよく口にはするのだが

 これが年齢相応、心身の衰えなのか。それでも、聖書を息子が読んでくれているということはよく分かっていて、一日の中で尊い時間だという感覚はあるようだ。

「今日はここまで」と読み終わるとき、母は大きなため息をつく。これが「アーメン」という意味であればそれでよしとしよう。

 この聖書読み聞かせは筆者にどのような影響を及ぼしているのだろうか。聖書を音読していると、黙読している時とは違った印象を持つ。母のためにゆっくりと読まなければならないと思うので、一字一句をはっきりと頭に刻むことができる。

すると、神が直接自分に話しかけてくれるような気になる。そこで気づいたことは、「私は主である」といつもいつも語りかけてくれていること。

この言葉は創世記の時代も今も変わらず、誰にでも生きていく力を与えてくれる。

 

細井 順