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同窓会のつながりの中で

 先日、中学2年生の時の担任の先生とクラス仲間9人で集まった。先生は我々より一回り上で、兄貴分として多くの生徒に慕われていた。

私の仕事にも関心を寄せてくださり、私が勤めていたホスピスを舞台にしたドキュメンタリー映画『いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日~』に映画館まで足を運んでくださった。

 その先生から前回の同窓会の時に講演を頼まれた。先生が世話役をしている地域の老人クラブで、死の準備をテーマに話してもらいたいという。恩師から講演を頼まれることは、生徒冥利に尽きる。『人生をヨッシャ!と仕舞うためには』というタイトルで話した。

 今回の同窓会で先生から小冊子を頂いた。そこには、拙い講演を聴いてくださった先生の随感が載っていた。そして、それを先生自らが同級生の前で読んでくださった。大変恐縮しながら先生の言葉に耳を傾けた。

講演で話した「死にがい」という言葉に心が留まったと。「死にがい」とは、死ぬことの意味を見つけることの大切さを語ったものであった。「生きがい」とはよく言われることであるが、人間が死にゆく存在である限り、人生を全うするために、「死にがい」も考えてみてはと勧めた。

先生は、現在の老人クラブが多くの先達の努力で続けられてきたことを顧みて、これから先も楽しい会として次世代に引き継いでいくことに「死にがい」をひとつ見つけたと記してくださった。

最後は、「多くの教え子は今、私に多くの事を教えてくれる私の宝物になっています」と締めくくられていた。集まったクラス仲間一同は、心が解けるようにひとつになった。

 中学時代から続く恩師や仲間との交流、中学卒業時には誰も今日を予測していいなかったに違いない。それが、半世紀以上の時をこえて、好誼を続けている。ほんとに不思議なことだ。

誰かの計らいであろうか。この世には、喜ばしいことも、悲しいことも、人間の想いでは及びもつかぬことが起こる。やっぱり、人生は生かされているということなのだろう。だから、明日を期待して生きていこう。

 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。(旧約聖書 詩編 103:2

 

細井 順

 

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