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説教要旨「導きは、行先知れず」

2020年5月3日説教要旨
イザヤ書 62:1~5

ヨハネ福音書21:15~25


「導きは、行先知れず」


 直接の復活物語は、今日で終わる。そんな最後にもかかわらず、ペトロはどこまでいってもペトロなのだ。ヨハネ福音書も最後となり、ペトロがやがて殉教するという預言的な個所として描かれているのだが、彼は自分の「殉教」より、あいつは良い思いをするのか…という点を気にしている。そうだとしたら、彼を弟子に選んだイェスさまが本当に可哀そうだと思う。


 イェスの問いと、ペトロの答えは実はかみ合っていない。これは旧約の神と人との歴史に重なっていく。神の言葉に従うと約束しながら、約束から離れていく人々と後を追いかけていって導き戻す神という構造は、ここにおいても成り立つ。さらに、究極のところで神の歴史は、人を導いて実現するということにおいて重なる。ヨハネ福音書が書かれた1世紀後半のこの時点ではペトロはすでに殉教しており、ペトロの薄っぺらな人物を越えて働かれた神の姿を明らかにしていくのである。


 ペトロを批判しても自分だって全然大した人間じゃありません、というしかないのである。ただひとつ言えるのは、ここまでの人生を神様が導いてこられたから、今があるということなのだろう。私の人間性や行動力がここまでの道を歩ませた、歩んできたというものではないことは確かなことだ。ペトロも同じことだったに違いない。大人物だから殉教したのではなく、神様がその道を導かれたから殉教への道も歩くことができたのだ。
25節の「イェスのなさったことは書ききれない」という言葉は、今も生きている言葉なのだ。そうでなければ、歴史の中にイェスの言葉が残り、教会が作り上げられることもなかったである。これからも続くから、書ききれないのである。二千年も前の言葉が、今から未来をも作っていくというのは壮大な話である。


 これから少なくとも1ヶ月また無会衆礼拝が続く。21世紀に疫病が蔓延すると誰が思っただろう。その結果、家にいてスマホで礼拝を守るなど、つい1ヶ月前までは、参加できない方々へのサービスではあってもそれが当たり前になるとは思ってもいなかった。聖餐式までできる。これは正直すごいことだと思っている。録音・再生ではないライブ配信が可能にしている。このような変化が、どのように今後教会生活を変えていくのだろう。これによって良くもなり、また問題も出てくるだろう。それをまた受け止めていく時に、教会もまた新しい姿へ変えられていくのである。どこででも神の導きが確かにあること、力足らずでもその導きに従って歩みたいと願う。

森 哲

 

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