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説教要旨20/6/7「あっても見えないもの」

イザヤ書 40:27~31

ヨハネ福音書 14:10~17

 

 あっても見えないものという題にしたが、数え上げればきりがない。私など目の前にある財布やメガネが見えないという経験が何度もある。あっても見えないものは、身の回りにたくさんある。“いのち”も目には見えない。物質の集合体としての人間と、いのちをもった人間の違いを、科学的に説明できるのだろうか。調べてみたが、今でも生命の定義はないそうだ。乱暴な表現だが、「生きているかどうかは見ればわかる。」ということであるらしい。

 

先週は聖霊降臨日を迎え、聖霊が降ってきた話をした。目に見えない聖霊とはどんなものか、今日は少しその話をする。

 人によっては、目に見えないものは信じないという人もいる。しかし現代の私たちの生活も目に見えないものによって支えられている。電気や電波などを考えれば、それらが生活に欠かせないものであることは明らかである。テレビやラジオやスマホなどの受信機を通して初めて、その内容が見える聞こえるものとなる。聖霊の働きも似たところがあって、受け止めた時、体験した時に判るのである。たとえば同じ映画を見ても感動する人、しない人、その違いはそれまでの人生の積み重ねの結果なのかもしれない。

 

 上の話は、こちらが見ようとする、聞こうとするものが入ってくるという話だが、聖霊の働きは、スマホや携帯の地震緊急アプリに似ているのかもしれない。アプリが入っていれば、こちらの意志とは関係なく地震の発生を知らせてくれる。

 

 聖霊の働きも、これに似ているように思う。神が私のスイッチを押すのである。場合によっては、神の方向を向いていない人でも、神からすれば関係ないのである。なにせ創造主なのだから、その辺は自由自在、人の思いなど赤子の手をひねるようなもので、いとたやすく用いられる。ただ目を向け、耳を神に向けている人の方が、見やすい、聞きやすいというのはあるだろうとは思う。

 

 見えない神の力である霊に目を向ける時に、私たちは自分が神よって変えられる準備を整えたということができるのである。神様の思いがこの世界に伝わるように、どうぞ神様の道具として用いてくださいという祈りができるようになることを願う。

森 哲

 

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