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説教要旨20/6/14「その声についていきます」

「その声についていきます」

 

申命記 6:20~25

ヨハネ福音書 3:1~15

 

 私たちは、復活のイェスの証人なのである。直接見てもいないのに、偽証ではないかという声もあるだろうが、聖書の言葉を通して、私たちはイェスの復活を体験してきた。また聖餐式を通しても、イェスと触れ合う体験もしているのである。それゆえに、私たちはイェスは復活した。また私たちの罪を赦し、神の元へと招いていてくださるとはっきりと語ることができるのである。

 

 旧約の人々は、出エジプトの体験から神の導きが常にイスラエルの上にあること、その神が与えられた律法に従って生きることが、神に喜ばれ近づくことであると伝えてきた。その律法に従う生活は、今現在でも自分をユダヤ人であると認識する人たちの間では生きて働く神の言葉として語り伝え、またその中で生きておられる。出エジプトの出来事が紀元前13世紀頃と推定すると、3300年の時を越えて、今もなのである。

 

 それに比べれば、1000年以上現代に近いイェスの復活の出来事である。証言の違いや表現の違いがあったとしても、あったことを疑う必要はないと考える。その上で、今日のヨハネが語るように、イェスの下にいることが神の救いにあずかることなのである。

 

しかしそれは方法として確立されているのだろうか。教会が勧める“洗礼”が、方法として正しいのか、唯一の方法なのかと考えても不思議ではない。

 

逆に言えば、洗礼にそんな魔法みたいな力があるのかという話である。洗礼は魔法の儀式ではない。牧師と共に聖書について、教会について学び、その中で自分を顧みて、決心して洗礼の覚悟を決める。そして礼拝に集うみんなの前で、私はこれから聖書の神様を信じて生きていきます、という告白をするのである。いわば極めて人間的な式なのである。

 

なんでみんなの前でなのか。自分が信じると決めたらそれで良いではないか。確かにその通り、だけれども人はそもそも弱い。三日坊主と言う言葉がある。自分で決めたら、自分でやめられる。人の前で神様に約束するのでは、だいぶん違うのである。

 

それと大事なのは、共に礼拝に集まっている人たちも、その時にかつての洗礼を思い出し、心を新たにする。これまでの歩みの中に神のお守りがあったことを確認する時ともなる。

新しい方の証しと告白が、私たちを新たに聖霊の働き、イェスの罪の赦し、神の大きさに結び付ける。

一人の洗礼が教会全体の喜びとなり、証しとなる。教会の不思議というべきか。

森 哲

 

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