· 

説教要旨20/6/28「始まりと終わり」

ミカ書 4:1~7

ヘブライ書12:18~29

 

 終末は、いろんなイメージで描かれるが、始まりについては、大昔の映画『天地創造』くらいのイメージしかない。やがて終わりは来るのだから、むしろ始まりについて考えてみよう。

物事には終わり“も”あるが、その前に始まりがある。当たり前のようだが、終わりがない場合だってあるのである。歴史などという、普段の私とは関係なさそうなものは、私の人生の時間を越えて続くだろうから、その終わりを考えても仕方ない。

ところが、始まりはあるのだ。どう始まるかは、物語にとって最も重要な要素であるといえる。たとえば映画でも漫画でも、物語の途中から見たり読んだりしてもあまり面白くない。最初に何があったのか、主人公の設定はどうだったのか。それを知らずには物語がいくら盛り上がっても、物足りないのである。

 

 今日の旧約・新約は終末を思いながら書かれている。旧・新約聖書を通しての歴史観には、終末がつきものである。ただし、天地創造の神があっての終末であることが前提であることは忘れてはならない。この前提抜きのこの世の終わりについての様々なイメージが生み出されてきた。世界が滅ぶという予言も数々出てきた。もう一度言うが、終りより始まりが大事。

 

 私の存在は、神に与えられた命から始まった。この事実があってこそ、自分なりに様々喜んだり苦しんだりしてきたこと、また今後も起こりうる様々な出来事にも向き合う力がでてくるのではないか。その始まりを抜きにして人生を考えても、先ほど言った物語の途中からでは、ストーリーの全体像を掴むことができないのである。それができないと意味の取り違えや、勝手な解釈が成り立ってしまう。終わり方は、言ってしまえば何でもありなのだ。ハッピーエンドだろうとバッドエンドであろうが、それぞれの物語の最後なのだから。誰かが見てどう思うかも関係ないのである。自分がどう迎えるのか、どうだったのかという問題なのだ。だからこそ、神から与えられた命の始まりが重要となる。

 

 神が始められたストーリー(世界の歴史も私の人生も)は、神が終わりを描いてくださる。神が私に目をかけてくださった時間の流れ。そこに気付けば、経験してきた事柄の意味が分かるかもしれない。

森 哲

HOME