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説教要旨20/7/5「違いも受け入れる神」

2020年7月5日説教要旨

ヨナ書 4:1~11

エフェソ書 2:11~22

「違いも受け入れる神」

 

 小説でも映画でも、何らかの形で対立と葛藤が描かれている。アクション映画なら、正義の味方と悪の組織、私小説でも自分自身の内面の葛藤という風に、対立するものがあり、解決へ向けての努力みたいなものがあって、それを見たり読んだりする中で物語に引き込まれていくのだと思う。

 

 さて聖書の世界はどうなのか。対立と葛藤はどうなるのだろう。今日の旧約・新約では、本来神と対立する人々こそが神に受入れられるという点に注目する。旧約では、ニネベに住む異邦人が神の憐れみを受けて、ヨナは失意に打ちひしがれる。新約では、これまた異邦人への救いが明らかにされていく。

 私たちは新約の側から読むので不思議に思わないのだろうが、ヨナにしてもユダヤ人にしても、これは怒るだろうと私などは感じるのである。異邦人に対しては、それって横取りやろ!と思うし、神に対しては異邦人たちへの態度は裏切りではないか!と言いたくなる。これまで神に仕えてきたのは私たちの先祖であり、今もまた神の与えた律法を守っているのは私たちではないのか。それなのに彼らを祝福するとは何事かと。それでは収まりがつかんではないかと思うのである。

 無理やり納得しろというなら、そもそも神は人がどう思うかを忖度しない方である。やりたいことは断固される方なので、そこに人の思いをぶつけても相手にならないのだということになろう。確かにそうなのだが、今日のヨナは神に対して歯向かい、思いのたけを述べる。おかしいのは神であって自分ではないと。どうも旧約の方が、人は神に対して反論もし答えを求めて争うようだ。新約になるとイェスが仲保者となってしまい直接神と向き合うことができなくなり、すべてをイェスに委ねる形となった。ある意味残念と言えるかもしれない。

 

 神はヨナの声を聞かれる。彼が違うでしょ!と投げかける言葉をも聞かれるのである。そこでは神の思いとは異なる言葉に向き合う神の姿がある。違うものを受け入れるとは、単に神に従わない人々を受け入れるというような、ある種安易な答えを提供するのではなく、はっきりと神に対しても反対を唱える人にも向き合うことにおいてその姿を現されることにあると考える。

森 哲

 

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