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説教要旨20/7/12「生かす神」

説教要旨20/7/12「生かす神」

ホセア書 14:2~8

使徒言行録 9:36~43

 

 今日の個所では、ヤッファにはすでにイェスを信じる人々がいたことになっている。これは結構不思議なことで、イェスグループくらいの規模であれば、頭を潰せば、残りは消え去るものだ。イェスの十字架と復活からは少なくとも数ヶ月以上たっているので、人の噂も75日という諺が正しいとすれば、復活が事実でないなら忘れられるくらいの時間は十分に過ぎている。ところがヤッファにいる信じる人々は、リダからペトロを呼び寄せる。タビタの死は疑いないのもので、葬る準備はすでに整っており、ペトロが来たとして葬儀を執り行うことしかなかったはずであった。

しかし、呼ばれてやってきたペトロの祈りの奇跡が起った。奇跡について、いつも言うが奇跡は起こる。ただし再現性はないから、それを証明することは不可能である。

タビタが蘇ったことを信じるかどうかは、それぞれの立場で考えるか信じればよいと考える。私は蘇ったという読み方をするが、その意味については、神の力の現れではあるが一時の慰めにしか過ぎないとも考えてもいる。やがて彼女はまた死ぬからである。むしろこのタビタの蘇りに関わる様々が、カイサリアにいたローマの百人隊長コルネリウスとの出会いのセットアップになっていると考えている。

エルサレムでおきた迫害によって、各地に散らされた使徒や弟子たちが、各地でイェスを伝え続けたこと。今日のヤッファの人々もそれを受け入れていることが記されており、散らされたことによって、異邦人への宣教という新しい出来事を引き起こすまでに大きな変化となっているからである。

 

 前にも言ったが、ペトロの異邦人への洗礼がなければ、パウロの異邦人伝道など注目されることはなかっただろう。したがってコルネリウスとの出会いの前にタビタの記事が置かれていることは単に死人も蘇るというだけではなく、これから起きる大きな変化に目を向けさせる出来事と言うことになる。

 神から見放されていると考えられていた異邦人に救いの光が届く。それはイェスの死による赦しと復活による希望が示されることにより、新しい時代の幕開けが示されているからである。タビタの蘇りは、その幕開けの前奏曲であると考えると、彼女の蘇りにさらに明るい光が射してくる。

森 哲

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