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説教要旨20/7/26「人の信仰によって義とされる者」

ルカによる福音書5:17〜20

「人の信仰によって義とされる者」

 

 イエスが再び町にやって来られたようです。おそらく場所はカファルナウム、ガリラヤ地方に位置する町で、イエスは弟子の家に滞在されました。聖書を読むと、その家に「群衆」が押し寄せています。ガリラヤというのは当時辺境であり、ゲリラの住まう土地でもあったと聞いたことがあります。暮らしの苦しさ、不安、軋轢から、人々は解放を願っていたのかもしれません。イエスの言葉に、癒しに触れたい。理解できることです。さらに聖書は、群衆たちの後で遅れてやってきた男たちがいたことを伝えます。病の友をイエスに出会わせるために寝床ごと運んできたのです。人だかりで中に入れず、驚くべきことに家の屋根に登って穴を開け、寝床ごと病の友を吊り降ろしました。

 

 本当に驚きであるのは次の点かもしれません。男たちが屋根から友を吊り降ろしたところで、イエスは言われます。「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(20節)。

この言葉は何でしょうか。その病の人自身は何かをしたわけではありません。祈ったわけでも、救ってくれとイエスにくいついたわけでも、その服の裾に必死に触れたわけでもありません。むしろ、この救いの物語において役割を果たしているのは、イエスに出会わせるために友を寝床ごと運んでた男たちの信仰でした。今日の聖書の話は、言わば「人の信仰によって救われる人」の話なのです。

 

 以前ある時期、困難の中にある友人と話をして過ごしました。祈られることさえ、しんどい時があるものです。はたから見れば、私の友人もそのような状況であったと思います。ある時、その友人が私に言った次の言葉を思い起こします。「それでも助けてくれる人がいて、同情してくれる人がいて、俺がなんとかすると言ってくれる人がいて、こうやって今日もなんとか祈って眠れる。まだ祈れる。自分は信じさせてもらっている。」

 

 ただ自分で信じてきたというよりも、自分は信じさせてもらっている。信じさせてもらってきた。確かにそうではないでしょうか。自分の信仰の強さや、敬虔さや、信仰の努力によって信じてきたというよりも、あの信仰の友の言葉、ふるまい、姿勢、交わりによって、それらを通じた神の恵みを通して、私たちは信じさせてもらってきたのではなかったでしょうか。

 

人の信仰によって信じさせてもらう信仰。教会を通じた信仰の交わりに感謝し、私たちもまた人が信じることを守ってゆけるように、共に歩んで参りたいと願います。

橋本祐樹

 

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