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説教要旨20/8/23「知識を超える知恵」

ヨブ記 28:12~28

1コリント 2:6~16

「知識を越える知恵」

 

 パソコンで「知識と知恵」と検索すれば、キリスト教や仏教、哲学に至るまで、たいがい同じような答えが出てくるので、今日改めて話すほどではないように思えてきた。知識は積み重ねられてきたデータの集合であり、知恵はその人の中から生まれる決断や行動に価値として現れる。したがって知恵を集めつくすことはできない。今時パソコンで検索できるような知識は、単なる情報である。それらの情報の中からの取捨選択と組み合わせの中から価値が生まれてくる。

たとえば「修理の職人」を考えてみると、どんな製品でもそうだが新品を組み立てるのは、訓練すれば大体はできるようになる。しかし、故障した製品の修理となると、製品に対する知識だけではなく、故障個所を見つけ出す推理力や、その場で修理するあらゆる技術が必要となってくる。知識だけではなく経験が価値を生み出すのである。

 

「三人寄れば文殊の知恵」というが、これも持ち寄った様々なデータ・情報を出し合って、そこから新しい方法・方向を導き出すという点においては、確かに正しいであろう。

 知恵の優位は揺るがないだろうが、知識の裏付けのないものは知恵とは言わないのだろうと考えている。また直感的な知恵への到達ということもあることは否定できない。世界3大宗教のイェス、ブッダ、ムハンマドは、それぞれに命のあり様や生きていく中に大切なことを教え諭した。それぞれ啓示であったり、悟りであったりの中から出てくるのだが、ある意味で知識を越えた知恵という場所に立ったのである。その知恵の一部は語り伝えられて今に至るが、しかしそれは面倒でも知識や論理・経験をもって検証されて納得されるべきものであろうと考える。伝えるという作業の段階で、何かが失われ、何かが追加されてしまっているからである。貴重な知識の集積を無視した結論ありきの言葉に知恵はないのである。生きて働くときに知恵は輝くが、それがこり固まった時には知恵も輝きを失うと考える。

 

 今日のパウロもヨブ記の言葉も、知恵を問題にしている。さきほど言ったように、知恵は知識と無関係にあるわけではない。パウロの神の知恵という言葉を裏付ける知識は、彼の聖書への学びの上にあるキリストの十字架と復活と言う事実である。蓄えた聖書に知識の上に、キリストを据えた時に、パウロはユダヤ教と神の歴史の完成を見たのであろう。パウロはこの事実の上に立って語り出す。そうでなければ彼の前へ押し出した宣教への力は出てこなかったであろう。

森 哲

 

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