出エジプト記34:4~9
ロマ書 7:1~6
「人の責任・自由」
前回の知識と知恵とまったく同じパターンのようだ。日本の8月“平和”について考える時期なら、ある意味避けては通れない道なのかもしれない。さてどちらに重心をおくのか、基本的には各自で決めるしかないのだが、聖書ではどうなのかを考えてみよう。
神が人に与えられた最初のものは「いのち」であった。次に与えられたのは自由であった。そしてその自由に付属してしてはならないという責任を与えられた。この話は創世記1章2章にある。神話的表現ではあるが、人間のもつ生きるための基本を示していることは興味深い。
どのような国や社会や教会という共同体でも、自由と責任の問題は必ずついて廻る。自由は混沌(カオス)まで広がることもありそうだし、責任も死を与えるほどに狭めることもありそうだ。この間で、どの位置に自分を置くかが問題なのだろう。そもそも自分をそこに置くことが可能かどうかも、社会との相対的な関係で決まってしまうことも大きいのだが。
出エジプトの7節は、族長制度を前提とした言葉であって、今の家族形態における因果応報的な考え方とは根本が異なる。これは族長の判断が誤れば一族すべてが滅ぶという言葉であって、親の因果が子に報いという考え方ではない。族長は一族を安全に導く責任を担っている。どこに導くかは族長の判断・自由である。しかし、族長の判断は一族の存続に関わるのである。したがって族長には、先を予想してその判断・自由を正しく用いる責任があるといえる。
このように族長の責任は一族の存続に関わるほど大きい。見方を変えれば責任とは、様々な危機に対してどう対処するかという態度と言える。しかし、その危機を予想して備えること、これは族長の判断・自由に属する事柄だろう。
とすると問題は自由の方となる。単純化すると正解は一つなのに、間違いは正解にたどり着く道の数よりはるかに多い。間違える確率をより低くして、正解に近づく道は何なのか。神の言葉に従うことであるとなる。そのことを責任と受け取るか自由と受け取るかで、生き方そのものが変わってくるだろうと思う。
同じ場面であっても、選び方は違ってくる。これはもはや良い悪いの問題ではない。その人の生き方に関わるものである。それぞれに自由な中で、責任を負って生きていくのだ。他人に強いることではないということだろう。
パウロはユダヤ人を意識して、キリストを信じる者たちの自由を擁護しているように読めるが、数回前の第一コリントで主の晩餐について怒ったことを思い起こせば、彼も何だって自由だと言っているわけでないことは明らかである。
信仰をもってそれぞれの場で選んでいく、そこでは責任も自由も生きていく長い道の中で、合わせれば結局同じ重さで自分が背負っていくのである。
森 哲