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説教要旨20/9/6「主に従うことは」

出エジプト 13:17~22

エフェソ書 5:6~20

「主に従うことは」

 

 どんな人でも、何かに頼って生きている。その中で、何を頼って生きているのかと言う問題は大きい。人それぞれで、金や権力や生きがいや信仰やと様々にあるのだが、頼る基準が変われば当然ながら生き方は変わる。

教会での話で考えれば、信仰を基準とした生き方が勧められるのは当然だが、その理解によっても生き方や様々な判断は変わるということをまず理解しておこう。

したがって信仰者同士であっても意見が違うこと、生き方が違うことは起こり、その結果として互いを理解できないことがある。何が同じで何が違うのか、主はひとりであるが、見上げる距離や角度によってその姿は変わってしまう。

 それでよいのかという問いもあるかもしれないが、今日の旧約で18節にあるように、神は人々が恐れないように迂回路を用意されたとある。そのような道すら用意してくださる神であることを知れば、それぞれの道が異なっているように見えても、神ご自身がその道を用意してくださっていることを知り、違いすらも感謝できるようになるのではないか。しかも雲の柱と火の柱という目印を立てて導いてくださったとある。

 

 自分の信仰が、他の誰かと同じではないかもしれないが、自分は主に従って歩んでいると言うことが、ある意味で限界なのだと考える。そのことを理解したうえで、違う考えの人たちともできる限り仲良くしていくこと。判りあえる努力を少しでもしていくこと、協力し合えることを増やしていくことが必要なのだろう。その中で自分が変わることも可能だろうし、新しく人と出会うこともできるだろう。自分を固定してしまうと、そのチャンスを逃してしまうかもしれない。知らなければ、それはそれだが惜しいことだと考える。

 

 先週述べたように、神は人に自由を与えられた。それぞれが与えられた自由を用いて主に従っていくのである。力を込めて言うが、そこでは神の前に一人一人が等しいものとされていることが明らかにされている。誰かが私の意見や信仰と違うことを嘆く必要はない。共に主に従っていることを喜ぶほうが、ずっと大切なことである。

 

 今日の話しの結びは、今日のエフェソ書の最後の言葉がふさわしい。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

森 哲

 

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