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説教要旨20/10/11「さぁ、彼のところへ」

ヨハネによる福音書11:1-16

「さぁ、彼のところへ」

 

 ある私の知人は、幼いころに母親を亡くす夢を見たそうだ。目が覚めてから、泣きながら母親に「おかあさん、死なないで」と泣きつくと、その母親はその子を抱き寄せながら「おかあさんは生きているから、泣かなくてもいい」と言った。親との離別の夢は、成長の証とも言われる。皆さんの中にも、同じような体験をされた方がいるかもしれない。

 

 ヨハネによる福音書11章では、亡くなったラザロをイエスが起こす物語が描かれている。この物語は、イエスが死者を呼び起こす物語の中でも、最も細かな描写がなされている。

愛していたラザロの危篤の知らせを受けたイエスはこう語っている。4節「この弱りは死へ向かうものではない。神の栄光のために、そのことを通して、(その)子が栄光を受けるためだ。」彼は、その時、ラザロの元へすぐに向かうことが出来なかった。そして、ラザロの死を知り、イエスは言う、11節「私達の友であるラザロは眠ってしまった。だが、私は行こう。彼を目覚めさせるために。」また、15節「ラザロは死んだ。しかし、彼に向っていこうではないか。」「死」を「眠り」と語るその言葉の内に、死と生が交錯する、「命の彼岸」を見つめるイエスの目がある。

 

 聖書では、関係性の内に命が語られる。「わたし」が「あなた」と心から呼び、「あなた」が「わたし」を呼ぶ中に、命は在る。「自分には死を悲しむべき人はいない。自分が死んでも悲しむ人はいない。」この、関係性の破綻こそが、本当の死である。

ラザロの死と復活の物語では、涙と叫びの内に、ラザロの死を悼む人々の姿が描かれている。誰かの死を心から悲しむことが出来る、これは人間にとって最大の幸福である。それは、その人を心から愛し、その人に心から愛されていることの何よりの証である。この愛の内にその人の魂は、生き続ける。号哭の内にその魂に応えるなら、呼ぶ者の前にその人は再び起き上がることを、この物語は語っている。

 イエスは、「自分には死を悲しむべき人はいない。自分が死んでも悲しむ人はいない。」という、魂の死と、共に歩まれた方であった。しかし、イエスは、その魂に命を吹き込み、涙を流せる相手となられて、十字架にかかられた。我々は、イエスの十字架の死の苦しみを覚える時、イエスが我々を愛して下さり、我々がイエスを愛していることを知る。「だが、行こう」この言葉の内に私たちもまた生かされている。

田中 耕大神学生

 

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