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説教要旨20/10/25「つながりが生み出すもの」

ローマ書 14:7~9

「つながりが生み出すもの」

 

 今日は永眠者記念礼拝、信仰の道を歩まれた人々を記念する礼拝である。今年は、礼拝を共に守ってきたHさんの納骨が午後の墓前礼拝で行われる。香櫨園教会の墓地は、Hさんの大きな協力によって出来上がった。

Hさんの葬儀(2020年8月1日)で、アローセレモニーの社員が、Hさんの写真を見て、ロンドンでお世話になった方と気付いたと聞いた。思わぬところで思わぬつながりを見た思いがする。

 

7節と8節は、社会性を保った人であれば、とりたてて変わったことを言っているわけではなさそうだ。人は大概の場合、自分のためだけに生きているわけではなく、なにがしかのグループや組織の中で生きており、支えられて生かされているのである。しかもそれは、ある程度の自分の意志の持ち方で選ぶこともできるのだ。現代日本の場合では、「主」の個所に趣味でも組織でも会社でも適当なものを入れても文章は成り立つ。無理やり「国家」が入ると怖いが、出入りは難しいかどうかはあるが、とりあえず自由なのである。

ところが9節だけは、7・8節のように入替えの効かない文節である。社会的な場合を考えても、組織や国家やその他もろもろが「わたし」のために死ぬことはない。むしろ逆であって、「死ね」は大げさでも「犠牲になれ」というのが、極めて普通である。ところが、ここではキリストが私の主となるために死んだ。すでに死んでいる人の主となるために死んだと記されている。これは、この世の社会的な考えや理性的・論理的な考えをぶっ飛ばす言葉であり、十字架における事実である。しかもパウロは9節を、最後に置いたことによって、当時の教会のあり様までもぶっ飛ばしてしまった。この9節を前に置いて語る教会は多い。前に置いて語ると、ほらキリストがあなたのために死んだのだから、あなたはそれに報いるために全部を投げ出すべきだという流れを簡単に作り出すことができる。

そうではなく、キリストの十字架が先にあったことによって、私たちは救われた。私たちは自由な人間として生きることができるが、キリストの十字架に結び付けられていることを知ることによって、自分の生き方をキリストに向けることができるようになった。それは私が目を留め、興味を持ったとかいう次元で語られるものではない。

 

 キリストの死と復活から始まった教会、そこから始まる教会のつながりは、力によるのでもなく利益によるのでもなく、ただ私のために十字架に掛かられた主にあるつながりによってのみ存在できる共同体としてある。

森 哲

 

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