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説教要旨20/11/15「必要な導き手」

申命記18:15~22

マタイ福音書5:38~48

「必要な導き手」

 

 先週の続きで、巻紙遊びを作った。今回は、しるしが付けてあるので、それに従えば結果が得られるようになっている。試してもらえば、先週とは違う思いになれるだろう。作ってみて、必要なしるしは意外に少ないように感じた。もちろん遊びだからだが、人生でもきちんとした導きを手に入れれば、到達点に行けるような気がしてきた。私たちには聖書が与えられ、神の言葉と御子の福音が与えられているのだから、その上を歩いていけば困難もあるだろうが、最後の場所へはきちんと導いていただけるのだと信じることができる。

 

 旧約の時代に神は預言者を遣わして、人々に神の言葉を語らせた。すべての預言者すべてが神の言葉を語ったわけではなさそうだが、神が預言者を通して、神の言葉を語り正しい道へと導いてくれた。それにも関わらず、人々は道を外れて勝手な道へ歩いていったと旧約聖書は語っている。

 その歩みに業を煮やした神はどうされたか。厳しい裁きをもって人々を罰するのではなく、独り子を赦しの生贄として十字架に付けることで、人々の罪を赦すという旧約を飛び越えた姿を人々に示された。それが新約であり、新しい約束・新しい契約となって私たちの前に明らかにされたのであった。

 

 新約はレビ記24:20の律法の言葉をかなり意図的に“敵”と結びつけたところから始まっている。キリスト教とは縁のない人でも、うっすらと知っている句である。教会では「愛敵の教え」とされている。この言葉の基本となるのは、先ほど述べたように、神が赦しがたい人間たちを赦されたという起点があってこそ言える言葉であって、何もない場所からいきなり「お前の敵を愛しなさい」という、理解不能な言葉が飛び出しているわけではない。神がすでにあなたが敵と呼ぶ人をも赦されているという事実があるから、あなたも赦すことができるのではないかという問い、さらにわたしは人から受けた罪を赦しましたから、わたしの罪も赦してくださいと主の祈りで祈れるのではないだろうか。

 ところで、私たちは自分の“敵”という存在を具体的に思い描くことができるだろうか。

私は“敵”と呼ばねばならない人や存在を幸いなことに示すことができない。苦手な人はいるが、その人たちを“敵”という言葉に置き換えることはできない。理不尽な人もいるにはいるが、それも“敵”ではない。それに私は誇り高いタイプでもないので、少々の理不尽なら受けてしまっているようにも思う。それは、聖書の言葉に従うというような立派な心掛けがあるからではない。敵という漢字のノブミをはずしてシンニョウを変えて、適当に受け流しているからなのだと思う。それもまた聖書的な生き方なのかもしれない。

森 哲

 

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