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説教要旨20/12/6「救いの希望」

旧約聖書イザヤ書 59:12~20

新約聖書 マタイ福音書 13:53~58

「救いの希望」

 

 先週の“終末”といい、今週の重い聖書の言葉といい、御子の誕生を喜んで迎える気があるのかと言いたくなる。聖書の個所を選ぶ先生も、変わった聖書から御子の誕生を読み解きたいのだろうと考える。今年は浮かれたクリスマスは世間でも迎えることができないのだから、もう少し優しいクリスマスでもよかったのではないだろうか。先週の“終末”の続きと言える。それでも「救いへの希望」を読み取ることができるかチャレンジしてみよう。

 

神は歴史を通して人をご覧になり「こりゃぁダメだ」と言って、御子を送られた。新約の生まれ故郷の人々を見ると、良いものは欲しいが、すでに持っているものを手放すのは嫌という態度が見て取れる。受け取るためには、器は空にしないと入らない。クリスマスの靴下だって、空にしておいてプレゼントが入ることを期待するのだ。故郷の人々もメシアを待望していたのは間違いない。しかし彼らが願っていたメシアは、馬に跨った王の姿だったのだろう。

 

 故郷の人々はイェスを知っていると言うが、知っているとはどういうことなのか。育ち、兄弟、親などを挙げるが、知っていると思うことが、新たなものを受け入れない。ため込んだ、手持ちの情報で理解しようとしても、できないのだ。一度、手放してみることが必要だった。しかし彼らにそれを望むのは無理だったのだろう。この点は、今の私たちでも同じだろう。これまでに教えられたり学んだことがあり、それを通してイェスのことを知っていると思っている。それを手放して新たなイェス像を受け入れるということは、大変なことである。

 

クリスマスを二千年前の出来事として御子の誕生を知ったとして、そこに出会いがあるのだろうか。新しい出会いの中でおきる出来事だろうか。たとえば今の時期に夜回りや炊き出しをする人たちがおられる。その中にイェスを見出すことができるのかもしれない。私たちだって日常の中にあって、イェスと出会うことができる。その機会・出会いをしっかり受け止めることだと考える。

 新しい出会いがなければ、御子の発見・御子への信仰は生まれない。イェスが故郷で奇跡をあまりされなかったとあるが、奇跡ですら「救い」の先取りの“しるし”であるのに、それすら見過ごす故郷の人々は、イェスと新たに出会うことができなかったのだ。まことに残念なことである。

 

救いの希望が見えるのは、心に受け入れるだけの隙間があることが必要なのだろう。私も老年になってきて、少しずつ別れたり捨てたりして身軽になって心に隙間ができていくのだが、案外良いことなのかもしれないと考える。

森 哲

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