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説教要旨20/12/13「「神に献げられた人」

士師記 13:8~14

マタイ福音書 11:2~11

「神に献げられた人」

 

 旧約は、サムソン誕生の話である。母たちの物語と読むと、マリアやヨハネの母・エリサベト、サムエルの母ハンナを思い起こすことができる。それぞれに悩みながら、子が与えられ、子どもたちは神の器として用いられていく。

 

今日は、サムソンを題材に取り上げられているが、なぜこの箇所なのかという疑問がある。サムソンは粗暴で女好きの男であったと聖書は記す。彼は敵を数千人以上殺して死ぬ。60年も前には『サムソンとデリラ』という映画になったが、今の教会では評価されないだろう。しかし神の計画であったと書かれている。もし私が同じような個所を旧約から選ぶなら、サムエル記のサムエルの母となるハンナの個所を選ぶだろう。しかし選者はサムソンを選んだ。

 

ヨハネは、すでに牢に収監されている。祭司の家の出身でインテリの彼は当時の社会を宗教的観点から批判して殺される。またイェスの師であり、イェスの福音宣教の先駆けとなった。

大工の息子として育ったイェスは、全ての人の罪を背負って十字架に掛かる。

3人共に、神が人々に与えた人たちである。その意味で3人は、神の前では等しい存在であると言えるだろう。それなのに今の私たちはそれぞれに違った評価をしている。今の時代、サムソンを英雄と言うのも難しいが、それでも英雄タイプではある。ヨハネ的な生き方は今もある。それはそれで正義なのだろう。

 

イエスの贖いの死は、たとえば人は家族・共同体・組織のために死を選ぶ場合もあるが、それらとは違うのか。他人のために自分の命を差し出すことが賞賛されるのであれば、サムソンもこの中に入ることになるのではないだろうか。

教会の中では、神の子イェスと他の二人を同等に並べることは反対されるかもしれないが、それは教会が歴史の中で語ってきたことであって、私の経験や私の本心からの言葉だったのかということでもある。

教理問答とは言わないが、教会で教えられた答えを言うのではなく、自分の答えを導き出すチャンスではないだろうか。3人共に神の前では同じだが、それでも私はイェスを私のメシアです、キリストと告白しますということが大事だと考える。イェスの十字架を一度きりでありながら、永遠に続く罪の赦し出来事とするのは、私たちの信仰による理解であると言わねばならない。

 

先週の続きで、知っていることを手放して、もう一度向き合うことが求められているのだろう。教会の縛りから、聖書の自由へ。その上で、自分の言葉と理解でイェスをメシア・キリストと呼ぶことが求められている。

森 哲

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