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説教要旨21/1/3「最初の迫害」

エレミヤ書 31:15~17

マタイ福音書 2:13~23

「最初の迫害」

 

 日本では12月25日のクリスマスが終わるとすぐに正月の準備となる。教会でも例外ではないようだ。日本のクリスマスは、イェスの誕生の喜びとお祝いで過ぎていくが、今日の聖書はクリスマスがそれほど単純な喜びのお祝いごとではないことを示している。

 

 今日のマタイでは、ヨセフとマリアに連れられてイェスはエジプトに逃れたと記している。今で言うと「難民」ということになるのだろう。日本国内にも3.11以降「避難民」という名の「難民」が10年が過ぎようとしている今も多数おられることはご存じの通りである。

 

 今日の中心は、ベツレヘム周辺でヘロデ大王によって殺された子供たちのことを考えたい。ナチによって殺された神学者D.ボンヘッファーはこの子供たちのことを『最初の殉教者』と呼んだそうだ。私は、昔読んだ同じタイトルの物語を思い出す。十字架に掛けられたイェスを見て嘆き悲しむ母マリアに一人の女性が声をかけるというお話しであった。母マリアにその婦人は心からの慰めを語ると共に、次のように語った。『私の子も生きていればあなたのお子と同じくらいの年だったでしょう。ベツレヘムで王が生まれたという噂が流され、その時に王によって私の息子は殺されたのです。』

 この話しの著者が語り、ボンヘッファーが語ったように最初に“救い主”のために命を絶たれたのは幼い子供たちであった。名も知れぬ幼子たちの命の上に神の業がなしとげられたというのは、“救いの”と“死”が同時にあるという神の不条理を考えさせる。

 

御子の誕生によって私たちに赦しと救いがもたらされたことを喜ぶのであるが、同時にそれゆえに苦しむ人々がいたことを忘れるべきではない。それは先ほど述べたように今現在も同じで、私たちの生活を支えるために犠牲にされる人々が多数おられる。そのことを知る時に、いかに私たちが罪深く他の人々の犠牲の上に自分の命と生活を築いているかを知らされる。それに報いるために、多少なりとも共に歩む道を探ることしかないのだろう。しかしそれとて自分の罪を帳消しにできるわけではない。

 

エレミヤ書16,17節でエレミヤは、嘆きの声の後に、喜びが訪れると記している。エレミヤの場合は、捕囚からの解放という罪ある者にも希望を与える神の声である。神ご自身が誓った約束を守るためであり、嘆き悲しむ者も含めて、すべての者へ向けた声である。

ここに神様からの赦しなしには生きられない罪ある存在であること、その私たちのために御子が生まれたことが示されている。

森 哲

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