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説教要旨21/1/10「神の霊を受ける」

サムエル上 16:8~13

マタイ福音書 3:13~17

「神の霊を受ける」

 

 神の霊を受けると聞くと、何やらオカルトめいたものを感じたり、自分とは関係ないと思われるかもしれないが、それは違うというのが今日のお話である。

 

 ダビデも油を注がれイェスと同じ体験をしたことになる。ある体験を通して、非日常へと押し出された時には、今までと違う心理状態あるいは行動へと駆り立てられることがあることは理解できる。サムエルから油を注がれ、次代の王とされたことを通してダビデは変わらざるを得ない。だだし、この主の霊が激しくダビデに降りたとあるが、物語全体で言えば、ダビデの行動は理性的でありサウル王の部下として、次代の王であることを隠しつつ真面目に仕える人であったと記されている。

 

 イェスは洗礼の後、公生涯に入られて、奇跡を行い、福音を延べ伝え、十字架に掛かり復活するという時間を過ごされることとなる。この二人の共通の体験は、彼らの生き方を変えて、世界を動かすこととなる。

聖書の言葉であるから有難く聞くのだが、誰でも何らかの体験を通して変えられていくのではないだろうか。その内容や周囲への影響力は、知れているとしても自分自身の変わりようは、それまでの生き方から大きく変わる、そんな体験は生きていれば何度か経験するように思う。ただそれで一生が変わるか、ある程度の時間なのかでは、ずいぶん違うことになるだろう。

 

ダビデもサウルが死んで王となった後には、自分の欲望に負けて、部下の妻を寝取るマネをした。初代の王サウルも、神の霊が宿っている間は、神に忠実であった。時と共にそれが変わっていき、神から王としての権威が剥奪されてダビデへと移される。この二人が神の霊が宿る器であったと考えると、先ほど述べたように私たちもまた神の霊が宿る器であると言える。

 

 ここで変に謙遜することは信仰的ではない。神が用いられる時に器には自由などないのだから、イェスの母となったマリアがそうであったように用いられるままに、ということである。

飛躍するようだが、神が器を用いられる時に、神は自身の一部を器に移すのであるから、神は器である人の生き方を通して学び、経験されるのではないかと考えてしまうのである。

 

神の霊が共にあるとは、人のみならず神のおいても大切なのではないか。そうであることにおいて神が人と共にあることの意味をも深めていくことができるのではないかと考える。

私たちの生き方が、神の体験にもなると考えると、自分の生き方・自分の価値が決して軽いものではないことに気付かされる。大切に生きたいと思う。

森 哲

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