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説教要旨2/7「いやしの働き」

列王下 5:8~14

マタイ福音書 15:21~31

「いやしの働き」

 

 二つの奇跡物語を読んでいく。いつものことだが“奇跡”は起きると言っておく。ただし、再現性がないため、科学の目からは捉えることはできない。また自分という主体が、その出来事とどう向き合うか、どう理解するかが問われることである。

 

 今年度は新型コロナウィルスによって、世界中が大きな被害を受け、また受け続けている。ここ香櫨園教会は、春の無会衆礼拝をグループLINE電話で守ることができた。また秋に窓を入れ替えたことで、「三密」をクリアしてコートを着ながら礼拝に出席することもできている。これを奇跡と呼ぶのは大げさとは思うが、他の教会に比べてとんでもない神様の恵みの中にいることは確かである。教会のグループLINEを始めたのが数年前、グループ電話を始めたのは、緊急事態宣言のわずか数週間前、ほんのタッチの差である。窓の件も前から考えていたのに、この秋に入替えができた。これも本当にタッチの差である。この二つの出来事が重なることを「神様の恵み」=“奇跡”ともいえる。ただこの出来事の流れを“奇跡”ということにすると、この教会の誰も新型コロナ対策と考えたり願ったりしていたわけでもないのに起こったことになる。まことに不思議な神のなさりようというわけだ。

 

 今日の聖書の奇跡もまた似たような話と言える。ナアマンは、エリシャも神も信じていないし、七度川で身体を洗えという言葉も頭から拒否している。シドンの女はイェスを信じて願うが、イェスから拒否されてなお願い続けるのである。そして癒されるのは彼女の娘である。

 それにしても二人ともに、信じていない人を遠くから治してしまうというのは、すごいことである。私たちの感覚だと信じてこそ治してもらえると考えるが、そうではない状況でも病気を治すとかは、ホンモノだな。まさに神の一方的な力技がさく裂したということである。

 

香櫨園教会の場合も神の力技のさく裂だったと言える。他の教会は? 残念ながら判らない。ここに最初に述べた、出来事とどう向き合うかが問われる。他の教会に比べてここが信仰的だったわけでもないだろうし、神様に特別愛される人々であったというのもどこか違和感がある。それでも出来事は起こった。神様のなさりようは、人には分からないのである。ただ起こった出来事を神の業として賛美できるかどうかによって、私たちは神の証し人となれるかどうかが問われるのだろう。

森 哲

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