イザヤ書 30:8~17
マタイ福音書14:22~36
「奇跡・私にしか見えない」
いつものように“奇跡”はあると言った上で、自分がその出来事をどう受け止め、どう表現するかを考えよう。先週話したように、コロナ禍の中の礼拝だって奇跡と言えるのだから。様々な日常に、神の恵みはあるし、なにもとんでもない出来事だけを“奇跡”扱いすることもないと考える。
イザヤ書は、敵を恐れるな、逃げるなという神の声を語ろうとするイザヤと、それを聞くまいとする人々の間に神が立って、怒りをあらわにして語られる場面である。この場面において、神の言葉を聞こうとしない人々への怒りとは、神が人々を捨てないことの表れであると読める。大きな力で敵を打ち破って、さぁ大丈夫とは言わない。むしろ今この場に踏みとどまってこそ、あなたたちは生かされると言う言葉には、今ある状況そのものが、神の設けられた場所であり時であることを示しているのではないか。人々がそこから目を背ける時には、神の姿も見失うのである。今、世界を覆っている新型コロナウィルスについても同様なのだろう。逃げるのではなく、その場に留まり向き合うことから神の業を身をもって知ることになるのだろう。
新約ではペトロが湖を歩いた。この話は、マルコとヨハネ福音書にも記されている。したがって、初代の教会から語り伝えられてきた話ということになる。ところが私にはすごいね、それで何? それがペトロの人生を変えたの? ただのお調子者じゃないの?というように読めてしまうのである。
ところが、そんな姿を人々が語り伝えたということは、ペトロ自身もこのエピソードを事実と認めて何度も話したからであろう。そうだとしたら、ペトロという人物は大物だったのかもしれない。自分の恥ずかしい歴史の中にもイェスの姿があり、イェスの姿を描こうとすれば自分の恥を恥としないという信仰のぶれない姿勢が明らかにされているからだ。ペトロの登場する時は、結構こういう場面が多いように思うが、そのまま語り伝えたペトロである。ペトロが恥ずかしいからやめてくれと言ったとしたら、いくつかのエピソードは聖書には記されず、消し去られてしまったことだろう。つまりペトロはこの時に、イェスが湖の上を歩いたことを証しして、自分もまた歩けたこと、恐れて溺れたことまでを明らかにすることで、奇跡を事実として確定させたのである。
私に起こった神の恵みを明らかにしていくことで、みんなに共有される神の業が“奇跡”となるのである。もし私一人に起こったこととして口を閉ざせば、神の業は広がりをもたないことになる。私が語り証しする時に、神も共に語ってくださるということを覚えたい。
森 哲