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説教要旨21/2/21「神に頼り、自分で決める」

申命記 30:15~20、マタイ福音書4:1~11

「神に頼り、自分で決める」

 

 17日から受難節となり、神様からの恵みを褒めたたえる時から、私たち自身について深く考える時となった。

 

申命記に記されている神の言葉は、出エジプト記やアブラハム物語、もっと遡れば創世記の天地創造のアダムとエバに与えられて言葉と同じである。時々によって表現に違いがあるとしても、「神を神とする。」「神の言葉を聞いて従う。」突き詰めればこれである。しかし旧約の歴史は、人がその二つの言葉に従い得ないことをずっと描いている。同時にそれにもかかわらず神は人を捨てずに、共に歩んでくださったことを記している。

 

その人々の身に起こったことが、イェスの身にも起こる。今日の話ではイェスへの誘惑として描かれている。飯が食いたいと言った出エジプトの人々、様々な奇跡を見てもエジプトが良かったという人々、神はいないと言って黄金の像を拝む人々など、神に従い得ない人の姿をイェスに当てはめると誘惑する者という姿をとって、まとめてイェスに突きつけるのである。別に神の子イェスだから受ける誘惑ではない。わたしたちの日常の中に普通にある様々な要素をまとめたらこの3つくらいになるだろう。要するに人が神に求めるものをまとめたのである。

 

簡単な話し、このイェスの答えが私たちの答えとなればよいのである。神が歴史の中で語り続けられてきたことのまとめ、イスラエルができなかったいくつかの事柄である。今日のタイトル「神に頼り、自分で決める」である。こう突きつけられると理屈はそうでも、人間それほど強くありません!という答えが返ってきそうである。残念なことにアブラハムから数えて約3600年を越えて今に繋がる“人の失敗”の歴史がそのことを明らかにしている。人間の本質は、神に向かうことはできないのだ。

 

 教会に集って礼拝を共に守る私たちは、神に頼ることを選択している。同時に神の声を聞きつつ、自分で選ぶ生活をしている。その点に問題があるとも思えないのだが、それでも私たちが神に従い得ないのはなぜなのだろう。自分がかわいいからか、神の声より内にある欲望や誘惑が大きいからか。みんなそこそこには真面目で、目に見えるほどの悪いこともしないだろうとは思うのだが、それでも神様の前にダメ出しされたら、どうしようもない。自己解決できないなら、イェスの十字架による神からの赦しへと向かうしかないように思う。受難節は、この点を考えていくことになる。

森 哲

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