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説教要旨21/3/14「おどろきの変身」

出エジプト24:3~11

マタイ福音書 17:1~13

「おどろきの変身」

 

 イェスの変身については、マルコ、ルカ福音書にも記されている。この話は、先週の聖書個所から続いている。これもまたペトロの証言によるのであろう。特にマタイではなくルカ福音書の著者は、エルサレムでパウロと一緒にペトロに会っているからペトロから直接聞いた可能性もある。

 

この変身物語については、何度かここの礼拝でも読んだが、その時に本来驚くべきはイェスの姿が白く輝いたことではなく、人々と共に生きておられることだと話してきた。神が人となるということは、本来あり得ないことである。ギリシア神話の神々も人に化けて世間に姿を現すが、本質的に異なるのである。人として生き、人として死ぬという神の姿は、ギリシア神話の中にも読み出すことはできない。

 

さて日本の変身ものでいうと“水戸黄門”と“遠山の金さん”が有名である。この二人は普段は、旅のご隠居であったり遊び人である。しかし場面が変わると突如として、先の副将軍やお奉行様の姿となって、悪人たちを懲らしめるのである。イェスも弟子たちの前ではなく、この二人のようにエルサレムの人々の前で変身していたら人々はイェスを伏し拝んだであろう。

 

なぜ3人の弟子の前だったのか。隠されているのか。秘められた真実なのか? それとも話が終わるからか。そうなのだ。聖地エルサレムで話が完結すれば、神の救いは世界には広がらない。ユダヤ教のメシアになっても、世界には関係ない話となるのである。イェスはユダヤ教から徹底的に捨てられることが、必要不可欠だった。厳しいことだ。神の計画は、イェスを通して民族の救いから世界の救いへと、大きく変化するのである。

 

先週の聖書の個所で、イェスが人々に捨てられること、殺され復活することを語り、それをペトロが否定し、ペトロにキレるイェスの話を聞いた。とするとエルサレムで輝く姿に変身すれば人々は信じただろうと話すことも、世界に神の救いを示す機会をユダヤ教の中に限定することなのだからペトロの考えと同じになる。

 

さらにペトロのメシア告白とイェスの神の姿とは、その内容が異なっている。ペトロのメシア理解が、当時の人々と同様であるなら(おそらく同じであったが)この“メシア”には、この世の王の内容が含まれている。したがってペトロは王になるべきメシア・イェスが死んでは困るのだ。それに対する応答が、イェスの変身だったのだろうか。先週の話の続きとして読めば、すさまじい応答ということになる。まさにおどろきの変身だ!

森 哲

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