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説教要旨21/3/21「特別あつかい」

創世記 25:27~34

マタイ福音書 20:20~28

「特別あつかい」

 

 誰でも特別あつかいしてほしい。他人との間はもとより、兄弟の間でもそうである。持っている人間はあまり意識しないものだ。エサウの態度を見ればわかるし、私たちの日常も、失うまでは当たり前だと思って生活している。その特別あつかいの中には、自分が大切されている証しがほしいという心理があるのだろう。

 

2018年のクリスマスイブに『たいせつなきみ』という絵本を読んで、神がひとりひとりをどれほど大切にされているかを知らされた。人からの評価ではなく、神に慈しまれている存在としての自分を、もう一度思い返してみることだ。

 

さてゼベダイの息子たちの母の願いは、2週前のペトロの思いと共通している。この世の王となるイメージである。弁護しておくと、元来ユダヤ教には“天国”というようなこの世の外の世界はない。あくまでこの世の中に神の救いがあると考えるので、イェスがメシアという時には、当然のこととして王座に着くと考えるのは自然なのである。イェスは答えをはぐらかすが、残りの弟子たちが怒り出す。彼らは先を越されたことを怒っているのだ。つまりは彼らも同じ思いを抱いていたのである。そこでイェスが言う。仕える者になりなさい。これはこの世の価値観ではない。最後は人のために命を投げ出すイェスの言葉である。弟子たちに怒っているわけではなく、優しく語りかけている。イェスの目には、人は神の大きな慈しみよりも他人の目に映る価値を好むと見えたのだろう。

 

特別あつかいの問題は、隣人として人や弟子と接するイェスと天にいます神とでは異なるのだろうか。世界と歴史を見渡す神の目からは、一人の人間の思いはチリのようなものなのだろうか。先週読んだが、神が選んだ人々であるユダヤ人から憎まれて殺されることが必要不可欠であるという状況を作り出す神の業。私の理解では、そうならなければ神の救いは世界には広がらずユダヤ教の中だけで納まったと考えるので、イェスは神の計画の内に十字架に掛けられたということになる。

 

 イェスに対する神の業は、仕えるどころか死ねという道を歩かせたことになる。これは悲惨ではあるが特別あつかいには違いない。他の人に負わせることができない重荷であるから、神の子に背負わせたということだろう。やはり世界と歴史を見渡す神ならではの計画と言える。

 それでもそんな大きな計画の中に置かなくてよいから、ほんの少しお恵みをくださいというのが人の本音になるだろう。しかし神の計画なしには、時と場所を越えて私たちが礼拝を守ってはない。実に私たちは、神の大きな特別あつかいの中に生かされている。

森 哲

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