哀歌 5:15~22
マタイ福音書 27:32~56
「十字架という出来事」
十字架というローマ式の処刑方法は、公開処刑で見る者に恐怖を植え付けて、ローマへの反抗心をなくすことを目的にした処刑である。したがってできるだけ苦しみながらも長生きするように手首と足首を釘で留めた。数日以上は苦しみながら生きるのが普通だったそうだ。最後は、無理な体勢から呼吸困難で窒息死となったそうだ。恐怖を植え付ける目的だけに残虐な刑具であった。
イェスの死は、前夜にピラト官邸で先端に金属片などを付けた鞭で打たれた(マタイ27:26)とあるので鞭による出血で重症だった上の十字架で失血性ショック死だったと考えられる。
運悪くかどうか、申命記21・22~23にある『木に掛けられた死体は呪われる』という神の言葉がイェスの十字架と重なった結果、ユダヤ人はイェスをメシアと認めることは、全くないのである。申命記の個所は、この時のために書かれていたのか? という疑い…が生まれるほどだ。
もしそうなら申命記が書かれたイェスから650年ほど前に、イェスの十字架の死は決定されていたことになる。申命記がイェスを信じない根拠となると因果の因は、果のために作られ置かれたのか。
十字架から神はユダヤ教を越えて世界に向かわれたと考えることは、ユダヤ教からイェスが徹底的に排斥されたことをもって明らかとなる。単に憎まれたという意味ではなく、今説明したように旧約聖書においてもイェスは排除されるのである。神が示した旧約聖書の言葉で排除されたイェスを、神が世界に押し出されるのである。とてつもなく不思議で壮大な計画と言わねばならない。この理解によって旧約・新約の間の断絶と継続が成立していくのである。
今年の受難節は、イェスが私たちの罪を背負って十字架に掛かられたと言うよりは、神の計画としての十字架を読んできた。どちらを選んでも、人の神の前での“罪”ということには違いないが、神を中心に読んでみると世界と歴史の神としての計画というものに目がいく。しかも十字架と復活のセットだけではなく、弟子たちに受け継がれて世界に広がるまでが計画の中に組み込まれているのだ。
新約では記録としては使徒言行録までであるが、現代そして未来に至る世界史に極めて大きな影響を与えた、また与え続けるのは事実である。
その時代の人々には理解しえない方法によって、神は世界に新しい道を開かれて人々に示された。私たちもまた、その神の計画の中で生かされている。
森 哲