· 

説教要旨21/4/4「イェスの復活」

エゼキエル書 36:16~28

マタイ福音書 28:1~10

「イェスの復活」

 

 エゼキエルに神はなぜこんな言葉を与えたのだろう。イスラエル民族が改心したわけでもないのに。神ご自身が名を惜しまれ、救いを与えるとの宣言をされた。人はクズでも、その神までがクズと言われるのは心外である。

それでいっそのことこの民を、神自身が聖なるものと宣言し、神の力で自分のものとするということなのだ。すごい神の開き直りだ。ここまで開き直られたら、人は口をつぐむしかない。人が神の意志にとやかく言えるわけもなく、仰せの通りになりますようにと答えるほかないだろう。

 

 今年はイェスの十字架を、神の計画という読み方で読んできた。復活日を迎えて、このような読み方のできる旧約の個所が与えられたので、神の計画と読むことも可能なのだと安心した。

 さて、復活日(イースター)となり、復活のイェスと出会う時である。イェスの復活によって、神の計画、世界に向けての救いの業が明らかにされることになった。ユダヤ人から捨てられたイェスが、復活・召天・聖霊降臨と続く神の業の中で世界へと告げ知らされていくのである。この神の全世界に向けた言葉というのは、旧約の中でも時々は現れる。その言葉がキリスト預言と読まれるのである。しかしイスラエルの歴史の方が強く描かれているので、あまり注目されていない。あえて全世界というなら、神がノアの洪水で世界を滅ぼしたことが思い出されるが、この話のオリジナルは、メソポタミア辺りの伝承が聖書の理解の中で取り込まれたとされているので、今回のイェスの復活を通して全世界というのとは違うといえる。

 そうすると神のイスラエル民族を越えて全世界を目指したアクションはこれが最初となるのだろうか。神の歴史の転換点ということになる。なるほどそこに登場すべきは預言者ではなく、神の子でなければならない。そしてイェスの復活に立ち会う人は、神の歴史の転換点に立っている証人ということでもある。

 

 イスラエル民族だけではなく、全世界のすべての民が神の救いにあずかるという宣言の場には、死人の復活もまた大きな意味を持つ。すでに死んだ者も復活によって救いにあずかるなら、これから生まれてくる者も同様に、イェスの復活の出来事によって救いにあずかれるのである。

森 哲

HOME