イザヤ書 65:17~25
マタイ福音書 28:11~15
「噂の真相」
新約では、イェスを十字架に付けた人々の慌てた様子が描かれている。実際問題としてカリスマの遺体は処分も大変だ。盗み出されて祭られでもしたら、それこそ一大事になる。
ビン・ラディンの遺体は、イスラム教にはない水葬という方法で米軍によって海洋投棄され、その遺体を見つけ出すことは不可能になった。宗教改革の活動家ヤン・フス(1369年頃 - 1415年7月6日)は、異端として火刑にされ遺灰は集められて、近くのライン川に流された。
逆にブッダの遺灰や遺骨は8万余に分けられて、仏舎利として各地で祭られることになった。またレーニンのように遺体をエバーミングして、神殿のような建物に祭られる人もいたりする。
さて復活の出来事を正確に把握したのは弟子たちではなく、イェスを十字架に付けた人たちであったのは不思議なことだ。
ただ彼らは、その事実を隠蔽することを選んだ。自分達の立場を守りたかったからでる。力ある人々が自分たちに都合の悪いことはもみ消そうとするのは、なにも現代の権力者に限らないのである。その上で彼らは、弟子たちがイェスの遺体を盗んだことにしようとする。新約では、それがユダヤ人の中での事実として定着したとある。
こういった噂(情報)は人々の口にのぼり、やがて忘れられていくはずだった。「人の噂も七十五日」というわけだ。情報過多の今の社会なら十日ほどで忘れられるかもしれない。しかし、この後復活のイェスと会う弟子たちは、イェスの復活を生涯語り続けていく。ここが事実の強さということだろう。
イェスをメシアと言いつつ、実は王座の左右に付きたいと願っていた弟子たちが、命をかけてイェスの復活を伝えだしていくことは、イェスの復活が事実であったことを示している。
そして王というこの世の権力というものではなく、まさに神からのメシアであることに打たれた弟子たちは、自分たちの意志以上の力を神から与えられて証しすることとなる。
イェスの復活後、それでも弟子たちは迷うようだ。聖霊降臨までの間のある意味で中途半端な弟子たちの行動をみれば、復活だけでなく聖霊降臨の出来事がなければ、世界宣教は成し遂げられることはなかっただろう。そうならば、イェスの復活と弟子たちの宣教は、神の大きな力によると言わざるを得ない。
さきほどの人の噂も七十五日と言ったが、五十日後のペンテコステにはイェスの遺体は弟子たちが盗んだという噂に対して、エルサレムに巡礼に来た人々の前で、イェスは復活したという真相が堂々と宣べ伝えられることとなる。
森 哲