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説教要旨21/5/9「見せる? 見せない?」

列王記上 18:30~39

マタイ福音書 6:1~4

「見せる? 見せない?」

 

 残念なことに、緊急事態宣言が5月末まで延長された。それで5月中は無会衆礼拝となることとなった。LINEでの礼拝が続くが、参加してくださる方々には本当に感謝である。

 

 今日は、エリヤのパフォーマンスとイェスの言葉の対比として考えてみたい。パフォーマンスも実力のうちであって、人々の心を動かすのに大きな役割を果たす。実力があっても人が目を留めてくれなければ、人気は出ない。エリヤのパフォーマンスは、バアルを神として支持する人々の目を神に向けるためのものであった。その試みは成功して、人々はバアル神から聖書の神へと帰ってくるのである。

 

バアルの預言者たちと、どちらが本当の神か人々の前で明らかにするという計画だったので、犠牲の雄牛に注ぎ掛けたのは水ではなく油を準備していたのではなかったかと思うが、人々の目を神に向けさせることができたと言える。

 

 現代の教会でも、米国のメガチャーチ(超巨大教会)などでは私たちのイメージする礼拝とは異なり、随分と派手なパフォーマンスがあるそうだ。牧師がステージ上を歩き回り、聖歌隊は新しい讃美歌で参加者を魅了するらしい。日本でも若者を集めている教会では、そのような形の礼拝をしている。やがてはこの教会でも課題となっていくのかもしれない。

 

 さて注目を集めるパフォーマンスに対して、イェスの言葉は言わば“善行”と呼ばれる行為は人に褒められるためではないと言われている。人に褒められた時点で、その行為は報いられているというわけだ。批判されている人々は、神へ向けてのパフォーマンスのつもりだから、余計にたちが悪いと言われている。良い事は、そっとやりなさい。右手がしたことを左手にも知らせるなと。これを解釈すれば、ちょっとした事程度なのだと考える。誰も気にしないような、些細なことの中にも神の目は向けられていると言われているのだろう。

 それなら日常の中にいくらでも見つけだせる。“善行”などと難しく考えずに良いマナーくらいに思えば、自分でも意識しないでいられる。その意識しないでも行えるまでには、それなりの時間と努力も必要ではあるだろうが、子どもの頃から“躾”として大人から教えられた人たちは幸いだと考える。その点聖書の教えを受けて育つユダヤ教の人たちは、神と常に向き合っているようなので、それだけでも幸せなのだと考える。それでも目立ちたいという人たちもいたようなので、イェスの言葉が刺さるのだろう。

 

 コロナ禍を含めて、いろいろと世界が騒がしい。また世界は常に変化していく。そんな中でも神の恵みを受けた人々の、目にも留まらないような行いの積み重ねが、この世界を、そしてこれからの世界も支えていくのだろう。どうぞその人たちに神様のお恵みがありますように。

森 哲

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