エレミヤ 10:1~11
ルカ福音書 24:44~53
「キリストは天に、私たちは地に」
エレミヤがあざ笑う古代の神の像とキリストの昇天を考えてみる。エレミヤの言う生きて働く聖書の神は、拝まれるために作られた像ではない。確かに金銀で飾り立てられた像は、それなりに荘厳であり、畏敬の念を抱かせるものがある。それを否定する気はないが、像そのものではなく、生きて働き、人と向き合うことにおける神の存在こそが必要とされているとエレミヤは言う。
古代の多くの神がそれぞれに役割を持って、豊穣や天気や癒しを行い、時として戦いに勝たせる神として敬われた。それはそれでありだとは思う。人の手の届かない力が神々を通して現れると信じることは、今でも充分にあることだし、人にはその方が都合がよいのだから。多神教の究極の姿は“二神論”で間に合う。善なる神と、人を害する悪なる神である。
聖書はそれをぶった切って、唯一神を伝えてきた。人を害すること、試みることを神は自分で行うし、人を救うことも自分で行う。すべてが唯一神から出る。このことを受け入れるのはなかなかに難しい。しかし、その具体的な神からの人の世界への介入がイェスの生涯だと考える。
しかしそれでもイェスという人の生きている姿は物理的な限界がある。映画のヒーロー、スーパーマンが一人しか救えないのは、彼が実態を持ち、物理的な限界に支配されているからで、世界の裏で困っている人の役には立たないのである。
キリストも弟子たちといる限りは、全世界にその姿を表すことはできない。復活したイェスも実態がある以上は、世界という広がりには無理があるのだ。昇天は、いわばイェスの姿が弟子たちの前から見えなくなったことの表現なのであろう。イェスは人の目には見えなくなった。そして聖霊という力として、弟子たちにそして人々に降り注ぐのである。
聖霊降臨との関係でいうと、イェスは姿を消すことで1か所にではなく、世界に力を表す存在となったと考える。例えていうなら塩みたいなものだ。塩はないと困るが、料理などの時には塩は溶けないと意味がない。塩が塩のままでは辛いだけだが料理の中に溶けることで、おいしい料理になるのと同じと言ってよいと考える。そして塩でいうならば溶けるとは消滅ではなく、素材全体に塩味が付くことを意味している。
イェスの場合も特定の場所・時代ではなく、いつでも、どこでも誰にでもという存在になったと考えると、誕生・十字架・復活・昇天・聖霊降臨という出来事全てが、神の意志が世界へと向かっていることが判る。
説教題ではキリストは天にとあるが、姿が見えなくなったことを指す表現であり、来週の聖霊降臨こそ、普遍的に神から全世界の人々に与えられる救いと恵みの時となる。
森 哲