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説教要旨6/13「喜びを分かち合う」

イザヤ書 60:19~22

フィリピ書 2:12~18

「喜びを分かち合う」

 

 イザヤ書とフィリピ書のパウロとでは喜びの中味が違う。与えられる喜びと自分で手に入れる喜びの違いと言える。誰かから何かをもらうのと、スポーツ選手が努力して優勝を勝ち取る、くらいの違いと言えるだろう。どちらがどうというわけではない。個人の好みの問題であろう。棚から牡丹餅か、努力が報いられたか、それぞれが選べばよい。また場面や方向性の違いで、寝て待つ場所、努力する場所も異なるであろう。

 

 パウロの言う救いの達成は、自分の力でかなうのか。それならイェスの十字架はいらないことにならないか。神からのイェスを通しての赦しと救いは、イザヤが述べているように神ご自身の宣言であり、約束の成就である。ありがたく頂けばよいので、自分で包装紙に包み直してから受け取るようなことを考えなくてよいと考える。

 

 パウロが活動した時代のローマ帝国は爛熟期であった。今のキリスト者が考えるような神観や倫理観とは違っていたとされている。日本のように八百万の神々がおり、その中に聖書の神も受け入れた人々がいたということらしい。唯一の神として受け入れた人々の方が少数者だったようだ。今の日本の多くの人々のように、クリスマスとイースターをお祭りとして受け入れ、正月は神社にお参りし、葬儀は仏式で行うみたいな人々が多かったのだろう。したがってキリストの復活を神々の一人として受け入れるようになった人々に対して、パウロは生活の中にあって進むべき方向を伝える必要が出てきたと考える。つまり爛熟期のローマ人は生活をそのままにしてキリスト者になったわけだ。

 

パウロたちは異邦人伝道の初期に、エルサレム会議で異邦人が守るべきルールを決めた。それだけでよかったはずだが、実際にはパウロが思っていた以上の事態が異邦人キリスト者グループの中では起こっていた。そうであるなら、この勧めももっともだろうと思う。だからといって今現在もそうだとしてしまうことは危険と考える。先に述べたように自力救済に読めてしまうからだ。キリスト教には自力救済などない。自力救済ならユダヤ教で充分である。

 

 神がイェスを通して示された罪の赦しと救いへの道は、決して自力によって到達できるものではない。別の言い方をすれば、何かを神に差し出して交換に手に入れられるようなものではない。被造物の人間が神に差し出せるものなどないからである。ただただ神の憐れみと慈しみを受け入れるしかないのである。そこにおいてイェスは私のキリスト(救い主)として姿を現される。教師ではない。イェスの言葉を実践するから救われるのではない。

 

救い主であるイェスが、私たちを罪から救い出し、神の国へと招いてくださっているのだ。私たちはその喜びを分かち合うために、他の人々にもその喜びを語り、また様々な表現・活動を通して神の恵みを一人でも多くの人に知らせるのである。

森 哲

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