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説教要旨21/7/4「覚え合う幸せ」

歴代誌下 6:12~21

第一テモテ書 2:1~8

「覚え合う幸せ」

 

人に名前を覚えてもらうことは、それだけでうれしいことだ。初めて会う人から名前を聞かれて、2度目に会うと名前を呼んでもらえたら、それだけでその人を好きになれる気がする。この覚える、覚えあう関係というのは、人間関係の基本である。基本的に“わたし”と“あなた”という意識があって、はじめて成り立つ。

 

 これが神と人との関係においてはどうだろう。聖書は、神は人を忘れることがないと記している。ところが人の方は、神の思いを知ってか知らずか、好き勝手をする。知っててもするのだから、知らなかったらもうどうしようもないことになる。

 

 ソロモンの祈りは、神への感謝と悔い改めの祈りだが、その祈りが神殿の完成という時にされていることは覚えておいてよい。こんな素晴らしいものを作りました。どうぞここにお住まいになって、日々私たちを祝福してください。というのが、一般的な神殿なりの完成の祈りとなるだろう。しかし彼の祈りは違う。おもしろいことだ。この祈りの底には、神の前には隠し事などできない。神は私のすべてをご存じであるという理解がないと、この祈りにはならない。

 ある意味ごめんなさいという言葉が、相手が覚えていてくれるから出てくるのだろう。ここで相互の関係が成り立つ。素晴らしいでしょ、ここに来てね!では神(相手)が見えていないということになる。

 

 パウロはパウロで面白いことを伝えている。祈ること、神に対して向き合うこと。そしてそれは、自分の願いを訴えるのではなく、全ての人が神に顔を向けるように祈ることとしている。この勧めはローマからのキリスト者への組織的な迫害以前のことだが、それでもすでに何らかのトラブルをキリスト者たちは受けていたと考えられる時期である。それでも力を持っている人々を覚えて祈りなさい。それは良い事だと彼は言う。

このようなことを書くから、パウロは批判されたりするのだが、権力者だって神の前には赦されるべき存在だ。だから彼らのために祈りなさい。保身やおもねりでなく言えるのはすごいことだ。敵認定して対決した方がよほど楽だと思うが、そうではないところがパウロのすごさなのだろう。パウロの批判者にこれだけの度量があるかどうか聞いてみたいものだ。権力者から覚えてもらおうが目的ならば、もっとましなというか目を引く方法もあったと思うが、祈りなさいという勧めなのだ。

 

 仲良し同士なら祈りあえるだろう。そんなことは当然できることだ。神によって赦された者は、神がされたように赦すことができる。相手(敵)をも覚えて祈ることができるとパウロは言う。ソロモンが神に神殿完成の祈りに悔い改めを祈り、パウロが敵にも祈ることができたのは、神の本質、覚えていてくださる、そして赦してくださる神の姿を知っていたからであろう。

森 哲

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