· 

説教要旨21/7/25「今こそ、救いの日」

ホセア書 6:1~6

2コリント書 6:1~2

「今こそ、救いの日」

 

 “救い”の概念について考えると2つに分かれるだろう。外的な救いと内的な救いである。救急車・救助隊は外的な危機に際して助けてくれる。宗教家や臨床心理士など内的な危機を治めてくれる場合。どちらも危機には違いないが、特に内的なものは外から見えるような問題ではないので、余計に深刻の場合があるように思う。

 

 強調しておくが、聖書においても神からの“救い”という場合にも両義あって、どちらか一方と言う事はないのである。出エジプトやバビロン捕囚からの解放など歴史的な救いもあれば、預言者を通して伝えられる神に従うことへの言葉もある。したがって“救い”という内容は、私の存在全体と関わることである。気持ちが安楽です、だけではない。かといって安心して生活できます、だけでもない。双方のバランスであり、生活の質(Quality of Life)という全体から考えられるべきであろう。

 

 まず神に目を向けることで、私の存在は神によって保護され、保証されていることが判る。神なしには私も存在しない。それほどまでに私の存在自体が神に依存しているわけだ。無論、そんな自覚なしに生きていくことだってできることは間違いない。それでも神と向き合う経験をした私は、もはや後戻りできない場所にいる。何がきっかけかは判らないが、神と向き合う経験そのものが“救い”の経験なのかもしれない。

 

 神と言う存在に向き合う時に、私のあらゆる部分、生命活動に関わる外的内的な事柄すべてが、神との関係において理解できるようになる。その関係を理解することは内的なものである。盛大に犠牲を捧げたり、どかっとお賽銭を出したりすることにおいて関係が深まるものでもない。ただ神に向き合う姿勢が問われてくるのである。

 

 ホセアにある『神のもとに帰ろう。』から始まり『我々は御前に生きる。』とあるのは、自分の存在が、神の前にあることを告白する言葉であり、神の前に戻ることが自分の生の意味を見つけ出す最善の方法であることを示している。

 パウロはそのことを、「今は、救いの日」と表現している。今とは神との関係に戻る時を意味している。救いの日は、時間的な日ではなく、神と私の間の時を意味している。何月何日という意味ではない。

 

 神は変わらずに私に目を注いでくださるが、私は様々な事柄に誘惑されたりおびえ惑い、神の前に居続けることができない時だってあるのだ。それは残念ながら自分の弱さであり否定できない。それでも神が変わらずにいてくださるから、私は神の前に戻ることができるのだ。神は待っていてくださる。安心して神のもとに戻ろう。今は、救いの日なのだから。

森 哲

HOME