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説教要旨21/8/1「救いへの道」

ヨナ書 3:1~5

使徒言行録9:26~31

「救いへの道」

 

 新約は10章でペトロが異邦人のコルネリウスと出会う前の出来事。異邦人伝道など考えられてもいない時の話しである。

 サウロは言わばエルサレムを追い出されたが、そのことによって初代教会の平和ができたとある。サウロは教会にとってのお尋ね者であり、信用ならない者であった。使徒たちとは関係ができたが、全体的には彼への不信があった。またキリスト派への反対者たちは、彼を裏切り者として殺そうとしていた。サウロはどちらにも身を置く場所が無かった。そこで、人々が彼を故郷のタルソスに帰したということになる。少なくとも守ってやろうという状況・雰囲気ではなかったということだ。31節の「こうして」という言葉が気になる。面倒な男が消えたのでと読んでも良いのだろうか。面倒な男が消えたので、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、… こう読むと、初代教会もずいぶん冷たいものだ。

 

 ヨナとサウロは、二人共に神に無理矢理人生を曲げられた。その上、彼らにとって結果オーライにはなっていない。サウロはタルソスで引きこもり、ヨナはニネベの外で怒り心頭でハンストをする。

 しかし、大きく言う時には結果オーライなのだ。どこに誰に視点を合わせるかで、結果は変化する。面倒な者と言っても、二つの物語は大きく言えば神の計画の中にきちんと置かれている。けれども二人の目には、そのようには映らなかっただろう。

 

 この月、日本は平和という言葉が溢れる。しかし平和の対義語が戦争という考えになっている。平和の対義語は混乱である。国家間の混乱状況の収拾方法のひとつが戦争であると言っておく。それに対して戦争の対義語は、外交会議や話し合いということになる。つまり話し合いで解決できないから戦争と言う武力衝突となるのである。

 混乱でも戦争でも残念ながら犠牲は出る。当事者にとっては大問題だが、いわば世界や時代が引き寄せた結果であって、個人の思いとは違うとしか言いようがない。

 

 ヨナとサウロの話でも、二人が犠牲にならなければ、もっと大きな被害が出たことだろう。ニネベの町は滅び、初代教会は壊滅、そうならなかったのは二人の犠牲による。ヨナについては、神の言葉以降どうしたのかは描かれていない。サウロの方は、引きこもりから脱出して地中海北部を伝道して廻る異邦人への大伝道者パウロになる。歴史とはわからないものだ。

 どれが正しいのかは、後にならないと判らない場合も多い。「救いへの道」と題したが、これもこれが正解で唯一などというのはないと言っておく。様々なめぐりあわせの中で、救いに出会えた時、しかも後になってからその道が判ると言ってよいのかもしれない。

 

 イェスの十字架という犠牲の上で生きている私であることは確かなことである。人様に言える事ではないが、何かの誰かの犠牲になるとしても、それもまためぐり合わせ、また神の導きなのだと考えたい。そう考えれば、救いの道も私にとってではなく、誰かのためのものとなる。それを喜べればよいなと考える。

森 哲

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