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説教要旨21/8/8「み言葉に押されて」

エレミヤ書 20:7~9

使徒言行録 20:17~24

「み言葉に押されて」

 

 み言葉に押されるということは、神の意志が私を乗り越えて前に出てくる、私の願いでも思いでもないけれども、事態は神の意志のままに進行していくということだと考える。創造者である神の意志が被造物である私を動かすのだから、反発も何もあったものではない。

 

 私の知っている牧師たちの話しだが、総合大学の神学部と神学校では入学からして随分違う。総合大学の神学部は成績次第だが、神学校の場合は志望動機が第一と聞く。教会に行ったことがなくても総合大学の神学部は成績次第で合格できるが、神学校の志願者は、そもそも受洗して牧師の推薦状がなければ受験もできないのである。

 

 私の同期は10名ほどいたが、ほぼ全員が牧師になった。しかし、入学当時から牧師を目指していた学生はいなかった。皆、それぞれ思うところはあって神学部に来たのだが、どこで決心をしたのか牧師になっていった。あるいは神に呼び出されて牧師にさせられた、というのが正しいのだろう。私もその一人だ。一大決心をして牧師になったというのでないので、「柳に雪折れなし」が、生き延びている大きな要素だろうと思う。一大決心をしても時間の流れや事柄の大小によっては決心も揺らぐだろう。片や神学校の方はプロの養成校であるから、決心が折れない牧師を育てるプログラムがあるのかもしれない。

 

 最近は牧師になる学生が関学も同志社も減ったと聞いている。落語で幇間(ほうかん・たいこ持ち(男芸者))をネタにした話のまくらに、「幇間(ほうかん)というのは難しい仕事でっせ。男が男客のおもちゃにならなあかん。アホではできまへん。… 賢かったらよけでけしまへんけどな。」という一節がある。牧師も似たようなところがあって、日本では金銭的にも社会的にも決して高くない立場の上に「清く、貧しく、正しく」みたいな重荷まで負わされるのだから、ちょっと賢かったら避けるだろう。それでも神に押し出されて牧師になる学生たちもいるのであるが。

 

 エレミヤはどうやら総合大学タイプのようだ。自分の決心で預言者になったというよりは、それこそ押し出されて預言者をさせられている。しかも、神の言葉を正直に語るゆえに人々から嫌われるという、まことに不運な預言者である。神殿で王様のご機嫌を伺いながら、調子のよい預言をする神殿預言者という人々とは違うのである。

 パウロは神学校タイプか。復活のイェスに出会って人生が180度変わっても、神への思いに全くの変化がない。熱心というような言葉では言い表せない強さが彼にはある。命がけというような必死さも感じさせない。あるがままに神の言葉に従う姿は、神に自分を差し出した姿に見える。

 

 どちらが良いと言う話しではなく、個人の意思を越えて神の意志が広がる。また神は自由な意思で、誰でも用いられるということを覚えておけばよい。

森 哲

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