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説教要旨21/8/15「向かい合う相手」

創世記 24:62~67

コロサイ書 3:18~4:1

「向かい合う相手」

 

 今の私が読んでも古臭いと思ってしまうのに、ポリティカル・コレクトネスの人たちからすれば、読む価値どころか焼いてしまえ!といわれそうな個所である。ある特定の時代や場所で行われ、語られたことが“聖書”と言う権威ある書物に出てくることで、あたかもそれが真理であり不変のものであると理解される時に、それを批判的に読むことは決して間違いではない。そこから新たなものを生み出すことができれば、その方が良いのである。

 無論その批判に対しての批判が出ることは否定できないので、その批判とどう向き合うかが批判する側にも問われる。泥試合にならないような議論ができればよいのだが、なかなかそうはいかないようだ。パウロの言葉も、彼が当時の常識を語っていたとは考えられないので、たぶん当時の人々の常識の上をいった言葉だったと思うのだ。しかし、今やではある。

 私自身の半世紀でも、今の世界で同じことをしたり言ったりすれば、社会的制裁を受けることは、数多くしてきた。たかだか半世紀でそのくらいの変化があるのだから、2千年、それ以上昔の話が現代的であるはずがない。

 それでもこの箇所に意味があるのかという問いかけに対しては、聖書は方位磁石と理解しているので意味があると答えておく。最初に述べたように私自身は古臭いと感じるし、これを自分の中で真理として丸ごと受け止めることはできそうにない。しかし、自分の基準となる方位磁石を捨てる気もないのである。

 今日の2か所のテーマは、誰かと向き合うということだと考えているが、私が誰かと向かい合おうとする時に、この箇所から自分のすべきことや方向性が読み出せれば、それがこれらの個所とは異なる行動や言葉となるとしても、これらの個所の価値を損なうものではない。

 私の友人で沼田和也と言う牧師がいる。先日『牧師、閉鎖病棟に入る』という本を出して、amazonでも好評価らしい。東京の小さな教会で色んな人と出会って、本気で向き合うことを自分の生き方としている。私は彼のツイッターを読むだけだが、本気で向き合う姿勢を見ていると、とてもマネはできない。本気であるほど、向き合う相手から激しい反応が返ってくる。その反応に彼が傷ついていくのがわかる。それでも彼は向き合うことを止めない。私も含めて彼を知る周囲は、「あれが彼ですから…。」と言うしかない。

 そこまでする彼についていけない私たちである。そこまでできないならパウロの言葉をある程度批判的に耳を傾けている方が、聖書の大きな方向性から離れないのかなと思う。これ自体が間違いだという人がいることも知った上での考えと言っておく。

森 哲

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