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説教要旨21/9/26「働きの場」

コヘレト 3:1~13

2テサロニケ 3:6~13

「働きの場」

 

 すっかり秋となり、私がここで過ごす時間も残すところ半年となった。総括は年度末に出すが、香櫨園教会のメンテナンスをしてきたというのが、この12年を一言で総括する言葉となるだろう。出会いがあれば、別れがある。これもコヘレトの言う“時”なのだろう。個人的には良い働きの場であった。“離れよ“という声が届かなければ、あと何年かはいただろうと思うが、“時”が来たのなら別の場にいくのが正しい。なにせ牧師は旅人なのだから。便利屋さんとして使っていただけのが、大きな喜びである。

 

 さて、先週は下品に対する戒め。今週は怠惰に対する戒めである。この言葉はキリスト者の生活の基本原理になっている。ローマカトリック教会では7つの大罪という中にこの“怠惰”が入っている。しかしこれはユダヤ人として育ったパウロとギリシア人の生活観・文化の違いではないのか。ユダヤ人はその迫害の歴史ゆえに、身に着けられる換金できる装飾品と、やはり身に着けた職人技術で、身体ひとつで放り出されても生きていけるという生き方を代々してきた。一方ギリシア人は、ローマ以前から奴隷が働き、市民はスコレー(余暇:精神活動や自己充実にあてることのできる積極的な意味をもった時間のこと。学問やスポーツ)を最大の価値として生きてきた人々である。パウロの感じた“怠惰”が、ギリシア人の普通の生活であった可能性は高い。

 

テント職人で自分の生活費を賄っていたパウロからすれば、“怠惰”は罪のひとつに数えたのかもしれない。しかし当時は、教師が授業料も取らずに自分で生活費を稼ぐ方が圧倒的にヘンであり、逆に怪しげな人物と見られたと思われる。だから今日の個所で、パウロが誰の手も借りずに生きてきたと誇っても、それは受け入れられないことであったとも考える。文化の違いをパウロは理解していなかったというのが、本当のところであろう。それでも勤勉な日本人はパウロの言葉を真理として受け入れてしまう。

 

 今日のコヘレトを私が読むと、勤勉なユダヤ人がその生き方を離れて見出した新しい生き方と読む。道なき道を切り開いて進むのも、川の流れに身を任せて生きるのも、結局のところ神の前では同じだと悟ったようだ。それを著者が無理矢理に納得しよう、させようとしているように読める。

 

 ギリシア人の生活から哲学や数学が誕生した。スコレー(余暇)していたら色々と出てきたというものだ。汗を流して働くだけでは文化は創造できない。日本の昔話にも『三年寝太郎』という話しがある。役立たずと言われた若者が村のピンチを救うはなしであった。コロナ禍の中で、芸術関係の人々が彼らの仕事場を失ったのも、余裕のない社会では芸術が生き残る隙間がないことを表している。

 

 パウロの言葉には反するが、それぞれの人々の前には、神から与えられた時があり、また神から与えられた働きの場があるのだ。

森 哲

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