ヨシュア 6:1~5
ヘブライ 11:17~22
「信じて歩む」
“信じる”というのを真正面から考えると、客観的な保証がないのにあると思い込む、また実現すると思い込むことと言えるだろう。突き詰めれば自分の神への思い込みなのだ。
新約ではアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと旧約の始まりの親子4人がそろって、“信仰”というキーワードで結ばれている。彼らは“信仰”により信じたことが現実となるのだが、神の時間と言う流れの中で願いがかなったという言い方もできる。まだ起きない場合には“やがて”という未来に向けた言葉ともなる。神の時間の中で、起きる、起きるであろう出来事として理解するなら“信仰”とは神に己の存在を委ねることになろう。
要は自分の生き方そのものと関連しているのである。旧約の人々がエリコの町を7日間ぐるぐる回ったのも、アブラハムがイサクにナイフを突き刺そうとしたのも、彼らなりの信仰の行動なのだ。その行動は、その人にとって意味あるものであって、客観性とは無関係かもしれない。
“信仰”と言うから難しいので、例えとして“カレー”に置き換えてみる。神様が今夜はカレーにしなさいと言ったとする。みんながカレーを作ったとしても、全部違う味だろう。肉が違う。野菜が違う。野菜の切り方が違う。サラサラ、ドロリ、辛口、甘口などなど、それぞれの味となる。
アブラハムには、神がイサクの肉を入れろと言う。アブラハムの口には合わない超辛口カレーとなりそうだった。イサクは父が見つけた山羊の肉を煮込まれたカレーと言える。ヤコブは兄と争い、長子の相続権を軽く考えた兄のレトルト物と相続権を我が物にしたいと自分で作ったとの違いだろうか。ヨセフは、エジプトに奴隷として売られて、何か判らないままに時間が過ぎて、兄たちとの再開で、それまでの時間がカレーの具材を煮込む時間だったと納得してカレーに仕上げたと、無理矢理言うことにする。旧約のエリコの物語は、カレーの作り方まで神が教えたことにしておこう。
カレーに例えたが、その人が生きている時と場があるのだから“信仰”の持ち方も、それに伴う生き方も違って当たり前なのである。私がいつも食べているカレーと違うと言っても、その人にとっての作り方であれば、好き嫌いは別にしてその人のやり方なのだと言うしかない。“信仰”も同じで、一人一人違うということは理解しておくべきである。
話しを戻して、その一人一人の、そして個別の“信仰”に赦しを与えられたのが、イェスの十字架であり、イェスをこの世に送り出された神の人への思い入れなのだ。私たちは神から生きよと言われている。どんな味付けにして生きるのか、出来上がりはどうか。誰に食べさせるのかを頭に思い描きながら、おいしくなぁれと歩んでいくしかない。評価は自分でするのではなく、食べた人、神がしてくれる。
森 哲