· 

説教要旨21/10/24「関係を決めるのは私」

創世記2:18~24

マルコ福音書10:1~12

「関係を決めるのは私」

 

 旧新約聖書を読むと、男女の婚姻関係についてのように読めるが、“神から与えられた自由”と言う角度から読んでみたい。旧約の前半部の18,19節に記されているのは、神が作られ人のところに持ってきたあらゆるものに、人が名を付けたということである。この個所は、人が世界を自分との関係を自分で理解し認識することを神が許しておられることを意味している。言葉を替えれば、人が神が創られたこの世界を自分との関係で名前を付けて“再創造”する自由である。神により決定された関係ではなく、自分でこの世界との関係を作り上げていくことである。

 

 私たちは見知らぬ物事を見れば「これなに?」と聞く。人ならば「この人だれ?」と聞くだろう。この単純な質問こそが、自分との関係を作り上げる最初の質問である。答えによって、自分と関係があるかどうかを判断するのである。関心がなければ、忘れてしまうことができるし、また関心が湧けば、関係を深めようとするだろう。それは物事でも人でも一緒である。

 私が誰かを連れてきて、「隣のおじさんです。」と言うのと「今度ここに来てくださる牧師です。」と言うのでは、みなさんの関心は全く違ったものになるだろう。つまりモノであれ人であれ自分の関心で、その対象の軽重を決める事が許されているのである。

 

 旧約の後半部で神が人のあばら骨から作られた人を、「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」と呼んだのも人であって神ではない。神は他のモノに人が名前をつけたこと同様に、この呼び名をも認められた。繰り返すが、名付けたのは人であって神ではない。この箇所にも先と同様に、他の人をも認識・理解し自分と関係付ける人の自由についての深い考察が見られる。

 

 新約でイェスが、離縁についての問いに答えられた時に、今日の旧約が頭にあったことは確かである。イェスに男も女も同じ“人”であり平等という、今で言う人権意識があったとするなら、当時からはざっと2000年進んでいたことになる。当時の理解では女性は財産であって人格ではない。男からは離縁できたが、女性からの離縁はほぼ考えられないことだった。主人はモノを捨てることはできるが、モノが主人を捨てることはできなかったのである。

 

 今でもローマ・カトリック教会は離婚を認めていないが、先から見てきたように関係を決めるのが自分である以上、世界観が違うという共通の認識が二人の間で持てるのなら、別れも二人で決めてくださいと言うしかないだろう。それもまた世界を認識する二人の自由な決断となるのだから、神もまたそれを認められるだろう。世界を“再創造”するのは、創造の始めに神が許したその人の自由だからである。

森 哲

HOME