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説教要旨21/10/31「内から出る力」

創世記 4:1~7

マルコ福音書 7:14~23

「内から出る力」

 

 食欲の秋となった。今日の個所の前の議論は、清めの律法を前面に出して人を貶めようとする律法学者たちとの論争である。食事の前に手を洗うという清めの戒律が今で言う衛生観念から出たものかどうかは判らないが、旧約聖書の時代から食事の前には手を洗うという律法があり、人々はそれに従い手を洗ってから食事をしていた。

イェスの弟子たちはその辺がいい加減だったのだろう。イェスの弟子ともあろう者が、律法を無視していると非難された。そこでイェスは怒って口から入るものより、内から出るものの方が汚れているではないか、口に入ってくるものは清いのだと言い切ってしまう。

 

 イェスの周りの敵対する人々はイェスに対して口が悪かったが、さて私たちの周りはどうだろうか。今日は永眠者記念礼拝なので、先に召された方々との交流を思い出してほしい。そこでは心から出された言葉で生かされたのではなかったか。様々な言葉を通した交わりの中で、今の私たちがあるのではないだろうか。

しかし同時にそこには出されなかった言葉や行為があるだろう。人は自分の思いをすべて言葉や行動に移すわけではない。親子であろうと、夫婦であろうとも相手に対してすべてを出すということはない。もしそんなことをされていたら、関係は壊れたことだろう。相手に対しての言葉や行為には相手に対する思いがあるから、言葉は選ばれて出されるのである。

機嫌が良い時ばかりとは限らないので、時には感情的な言葉や行動が出たこともあっただろうが、それでも基本は関係を良いものにしよう、互いを高め合おうとする心が言葉や行動になったからこそ私たちは生かされた。そのことを感謝できるから、このような永眠者記念礼拝にも集えるのである。

 

イェスの口から出た言葉、すなわち福音に生かされているというなら、口から出るもの、すなわち心の内がすべてが汚れであるはずがない。神の言葉によって天地は創造された。人は言葉によって世界を認識し理解する。言葉は人を生かすものとしてある。誰かを攻撃するために用いられるのは、本来の用いられ方ではないはずだ。

 

先達が与え、残してくれたものを私たちは受け継いでいるし、それをまた伝えていくのである。そこに言葉が大きな役割を持つ。かの人たちが伝えてくれたのは、かの人たちの心の内に働いた力であり、そこから紡ぎ出された言葉や行動である。

私たちの“いのち”は、心の内から働く力によって生み出され、また生かされているのである。信仰の先達の心を今一度覚えて、歩みだしたいと願う。

森 哲

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