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説教要旨21/11/7「神の民の選び」

創世記 15:5~18a

マルコ福音書 12:18~27

「神の民の選び」

 

 旧約では、アブラハムへの約束と契約の締結物語が語られ、新約では復活について語られている。どちらも興味深い話であり、なんというか心のどこかにあやかりたいという思いが湧いてくる。神やイェスが目の前で話してくれればなぁという思いと、明確な言葉が安心を生むように思えてくる。

 

 旧約の神とアブラハムとの契約は、神の一方的な契約であった。牛や羊に山羊と鳥を割いてとあるのは、当時の契約の儀式だったそうで、契約する二人が割いた動物の間を通ることで契約締結となったそうだ。ところが17節では神が通っただけでアブラハムは残されている。すなわちアブラムはこの契約に参加おらず、神だけが契約を結ばれたのである。こんな都合の良い事があるなら、この身に起こってほしいものだ。しかしそんなふうに思わなくても、私たちもこの契約にすでに守られて生かされているのである。神を信じ、共に礼拝を守る者たちの上に、神が命を与えられた者たちの上に、神の契約は今も続いているのである。

 しかし、こんな話は疑いだせばきりがない。証拠はどこにあると聞かれても、聖書に書いてあるとしか答えようはないのである。新約の復活も同様で、死を越えた“いのち”が約束されている。それを復活と呼ぶ。イェスの言葉が復活を示していると言ってみても、疑いだせばこれも証拠はないのである。今日のサドカ派の人々がまさにそうであった。死んで復活した時に、生きていた時の契約もしくは関係は継続するのかという問いである。その契約なり関係が保持されているなら矛盾するではないかというわけだ。

 

 こういう議論の時のイェスの言葉は、言って悪いが論理的ではない。復活した時には天使みたいなものになるのだから、生きていた時のような関係とは異なるのだと言い切ってしまう。これを聞いて、やったぁ!万歳!というケースもあるだろうし、いやいや続いてもらわないと困る!という人たちだっているだろう。それにまた復活は、死んだときの姿ですか?という重要な疑問も残る。齢を重ねてあちこち傷みだした体で復活してもなぁとも思うし、いやいやピンシャンした体になりますと言われても、それを納得するのは難しいだろう。要するに、神のなさりようについては、聖書には書かれているがそれがどう実現するのか、人に分かるようには書かれていないのである。

 

 神のなさりように人が疑問をもっても意味のないことだろう。なにせ神こそが創造主であり、世界を支配し人を選び用いる方である。その方が、死すら越える“いのち”を約束されたのだから、それが人の想像を超えたものであることは確かだろう。

 神がどういう計画で、ここにいる私たちに永遠の“いのち”について、また復活について明らかにされたかも考えれば不思議なことである。皆が関心を持つ事柄でもなく、私たちの方が真剣に調べた結果発見したものでもない。ただ神の選びと示しが私たちの上にあったということなのである。

森 哲

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