エレミヤ書 36:1~10
マルコ福音書 7:6~13
「生きた神の言葉」
旧新約共に神の言葉を骨抜きにして、自分たちの解釈を優先させる人々の生き方に対する批判。そして立ち返れとの呼びかけの声である。
神の呼びかけが聞こえないのは、呼びかける方に問題があるのか。聞く側に問題があるのか。聖書に登場する人々であれば、基本的に神を信じる人々と言う前提があるので、聞く側に問題ありといっても間違いではないだろう。エレミヤにしてもイェスにしても、そのような人々に神の声を伝えようとして語り聞かせている。
しかし語る側に問題がある場合はどうだろう。今私たちはLINEを使って礼拝を遠くへ届けることができている。説教要旨もあるし、昔ならテープに録音して届けるようなサービスをしていた教会もあった。ある神学部がこのコロナ禍で集まって集会ができないので、インターネットで集会をしたら、日本全国のみならず海外からの参加もあったと聞いた。確かに方法として考えると進歩したものだと思う。しかしと思うのである。これらのサービスを受けているのは、聞きたい人たちであって、関心のない人々には届かないのである。聞かせる力がないのか、足りないのか、技術的な問題なのか、本質的な問題なのかを考える必要がある。
先日、依頼を受けて米国人の葬儀をした。その方は教会には行っていなかった。年齢的にベトナム戦争世代だったので、遺族にどうだったのか聞いたところ、信仰的理由から兵役を拒否し労働刑に服したと聞いた。生い立ちやベトナム戦争、日本に来てから…。話をまとめていくと、その方が教会を離れたのは、その方の責任ではなく教会の責任なのだというところに行き当たった。その方に届くメッセージを語れなかった教会。旧態依然とした教会。そんな中で、その方は教会を離れたことになる。
しかし、神の計画は不思議なものでその方の葬儀において姿を現された。遺族は日本人だったので、仏式での葬儀が不自然と思い、日本人的な宗教感覚でキリスト教式を選ばれた。30人ほどの方々が葬儀に参列されたが、どうやら教会に行っている人は米国人の友人たちも含めてほとんどいなかったように思う。ところが葬儀の中で、神はその方を導かれたこと、守られたこと、イェスをお与えになったことを示された。熱心なクリスチャンの葬儀ならさもありなんと思うが、神もイェスも信じる人のいない場にも神は姿を現し、信じない人々の前にみ言葉を伝えられた。神はどこにでも行かれ、思いのままに力を示される方であることを具体的に示された。
ところで教会は、そんな神の後について歩んでいるのだろうかと、印象深い葬儀の中で、そんなことを考えた。
森 哲