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説教要旨22/1/16「主に従っていく」

エレミヤ書 1:4~10

マルコ福音書 1:14~20

「主に従っていく」

 

 ヨハネ福音書によるとシモンとアンデレは、洗礼者ヨハネの下にいたようだ。洗礼者ヨハネが捕えられた後、ガリラヤへ帰り漁師に戻ったのだろう。イェスもガリラヤのナザレで大工の息子であったのだから、失意の内にガリラヤに戻ったとしたら、父の仕事を継いで大工として生きたであろう。しかし、イェスはペトロやアンデレと違って、ヨハネの意志を継ぎながら彼を越える言葉を伝え出した。それは失意の内にガリラヤに戻ったペトロやアンデレとは明らかに違う。イェスを押し出したのは神の子である自覚であり、福音宣教がイェスの生き方となった。

 

ペトロとアンデレは情熱的なヨハネに惹かれてヨハネの下にいたが、イェスは神の言葉を伝える者としての自覚に至る時間を洗礼者ヨハネの下で過ごしたと考える。それゆえに同じようにガリラヤに戻ったとしても生き方が全く違っていくのである。ファンはアイドルが消えれば行く道を失うが、イェスは洗礼者ヨハネのファンではなく、洗礼者ヨハネの下での経験を“福音宣教”と言う神の働きに繋いでいったと言える。そこにペトロとアンデレは改めて惹かれて、付き従うことを決心したのだろう。

 

 イェスが声を掛けただけで付き従うペトロたちのエピソードを読むと、ペトロたちのとてつもない決心であると読めるかもしれないが、基本的には彼らの決心よりもイェス神の力を示すものであると考えるべきであろう。神に呼び出された人は、エレミヤではないが若者だから、あるいは私たちのように年寄りだから無理です、とは言えないのだ。それは神の呼び出しであり、本人の年齢や能力や才能を問われているわけではないのだ。

 

 私たちが教会に繋がったそれぞれの時を考えてみるとよい。神の声に打たれてという人がおられれば頭を下げるが、私などは教会と言う場所が居心地良いから、ここを自分の場所にしようというような気持ちで教会に残った方だ。それが長い時間をかけた神の呼び出しだったと言われれば、教会から離れられない牧師にまで導かれたという事実があるので、そうなのだろうな、もっと適性のある人たちもたくさんいたのにとは思う。

 

 このように考えながら今日の個所を読むと、この『人間をとる漁師にしよう』という言葉は、また響き方が違ってくる。ヨハネの逮捕という事件によってガリラヤ湖に戻って挫折の中で暮らしている彼らに、ヨハネのところで抱いていた思いが、イェスの声と響きあった。「もう一度やってみようや」。今からでも、決して遅くはない。神の言葉に押し出されて生きていこう。

 

 エレミヤや弟子たちがそうであったように、私たちも招かれ、そして引き出されていくのである。神とイェスからの力を受けて世に出て行くのだ。私たちの力が弱くても、神の招きは私たちに向けられているし、また用いてくださるのである。

森 哲

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