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説教要旨22/3/27「約束のしるし」

出エジプト 24:12~18

マルコ福音書 9:2~10

「約束のしるし」

 

桜が開花し、新しい時が始まろうとしている。宮本先生とは何回か引継ぎをしたが、それでも慣れるのにそれなりに時間がかかるだろう。皆で支えて香櫨園教会の新しい出発を共に担ってほしい。

 モーセは神から十戒を受けるために山に迎えられたとある。その十戒の後半部の「〇〇してはならない」部分を字義通りに読むと、普通に生活している私たちには案外関係ない事柄が多いように思う。拡大解釈をすれば、「殺すなかれ」も、現代世界の中で生きていくことは誰かの生活や死と無関係ではないといえるが、直接的に手を下すわけではない。したがって字義通りに読む限りは普通に生活していけばよいのであって、よほどの悪意を持たないかぎりセーフなのだと考えられる。それなら牧師が深読みするほど難しくはないと初めて感じた。

 新約のこの個所は何度か読んでいる。その度に言っているが、イェスの姿が変わってモーセやエリヤと会っていたことが奇跡ではなく、弟子たちや人々と共におられることが奇跡なのだ、と今回も言っておく。奇跡なのは神が肉体を持って人となられたことの方であり、本来起こるはずのないことが起こったのである。イェスの口止めは復活までである。弟子たちはこの言葉が分らずに議論したとある。死者の復活とは何だろう。また旧約のように、新しい生活へ向けての十戒のようなルールという名の道しるべによって何が示されるのだろう。

 もう数十年にもなるが、ゾンビ映画が登場した。最初のゾンビ映画が世に出たとき、日本人にはただのホラー映画であったろうが、キリスト教国では教会の説く“復活”に対するはあざけりと受け取られたのではないかと考える。言ってしまえば、教会の力が弱くなってきたので、ゾンビ映画が撮影出来るようになったのだろう。現代の教会でも「復活」を明確に人々に伝えることができていないのは確かだ。それは「復活」という神の起こした出来事を、人が説明することなどできないからなのだ。聖書に記されていることを教会は真実として語り、人々もその復活を信じて受け入れてきたのが教会の歴史である。

 「復活」が信仰の領域から離れた議論や科学の中で解明されるなら、もうとっくに解決されているだろう。イエスの復活があったという証言を信じることにおいてのみ「復活」は意味を持って私たちに迫るのだ。イェスの語った福音も奇跡も、その復活へ導く“しるし”である。そう考えると、十戒が普通に生きることを勧めたように、イェスが普通の人々に語り掛けたのも、誰でもが復活の恵みにあずかれることを示されたのだと言うことができる。

 十戒や人となった神イェスを通して与えられた約束のしるしは、どこか遠く離れた所や艱難辛苦を乗り越えた先に置かれているのではない。わたしたちが生きている場に、すでに置かれていることを覚えて感謝の毎日をおくりたい。

香櫨園教会と皆様の上に神様の豊かなお導きと祝福をお祈りいたします。

森 哲

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