· 

説教要約2022/4/3「何を願っていますか」

哀歌3:18〜33

マルコ福音書10:32〜45

「何を願っていますか」

 

 2000年前に十字架の上で死んで復活されたイエス・キリストは今も生きておられます。そしていつも私たちに『何をしてほしいか』と尋ねられておられます。聖書に書かれているイエスも、まず相手に尋ねて、相手のニーズを満たそうとするところから始められました。イエスは相手の立場に立って、その人に最善なことが起こるようにと、いつも配慮されておられたのです。

 

そのようなイエスのアプローチによって、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いが引き出されていきました。いささか身勝手で勘違いしている願いではありましたが、イエスはその願いを否定せず、受け止めながら彼らを諭されます。

その中で、この時すでに苦しみを受け、十字架の道を歩んでいたイエスは、さらに弟子たちにご自分に従い苦しむことを求められます。しかし厳密に言うと、イエスと弟子の苦しみは違ったのです。イエスの苦しみは神の怒りを私たちの身代わりとなって背負う苦しみであり、弟子たちの苦しみはイエスに従うことによって起こる苦しみでありました。

 

この聖書を読む私たちにも、イエスはご自分に従うことを求めておられます。しかしイエスは毎日の生活に疲れ切っている私たちに、苦しまなければならないと言って、追い打ちをかけるようなお方ではありません。それを裏づけているのが、この物語に続いて書かれている盲人バルティマイの話です。ここでもイエスは「憐れんでください」と叫ぶ彼に「何をしてほしいのか」と尋ねられました。そして彼は目が見えるようになりました。しかしイエスは「安心しなさい」と言っただけで、他になにも要求はされてなおられないのです。

 

 ところで、世の中には「私は一生自分の十字架を背負って生きていかなくてはならない」と思い込んでいる人がいます。よっぽど後悔することがあって、自分を赦せなくて、悩み続けているのでしょう。しかしその人が背負おうと思っている十字架は、すでに2000年前に、神の御子イエス・キリストが背負ってくださったのです。キリストが身代わりとなって我慢して苦しんでくださったのですから、もうその人が苦しむ必要もありません。もしも背負う十字架があるとしたら、毎日の生活の中でキリストへの恩返をすることでしょう。それは誰かに対して何かをちょっと譲ること。そして自分が我慢することです。

 

しかし無条件に安心したり、他人に対して我慢したりすることは、私たちにとっては苦手なことです。でもご安心ください。神は聖霊という助ける霊を送ってくださって、あなたに力を与えられようとしておられます。人にはできなくても、神には何でもできるのです。

宮本幸男

HOME