カテゴリ:説教要約



2025年 · 2025/04/28
マグダラのマリアは、イエスの遺体が墓から無くなって途方に暮れました。墓の外に立って泣くしかない彼女に、天使たちは「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と呼びかけます。その呼びかけに対して、マリアはイエスを失った深い悲しみを語り始めました。そして、マリアが自分で後ろを振り向くと、誰かが立っているのが見えました。しかし、マリアは、その人がイエスだとは気づきませんでした。

2025年 · 2025/04/21
イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神に向かって大声で叫ばれました。この言葉は、まるで神への信頼を失ってしまった人が、自分の人生を嘆いているようにも聞こえます。 この叫びは詩編22編の最初の言葉と同じです。

2025年 · 2025/04/14
十字架に架けられて死ぬ覚悟を持って、イエスは先頭に立ってエルサレムに上って行かれました。しかし同時にイエスは喜びに満ちていました。なぜならば、イエスは父なる神の御心を忠実に行うことを決意していたからです。

2025年 · 2025/04/06
 自分の人生は長くない。私は終活のつもりで、牧師を目指して西宮市に来ました。幸いにも、残りの人生を捧げるつもりが、全国に2つしかなかった自身の病気の専門科が、たまたまこの地にあり、自身の体が癒されることになったのですけれど。社会から離れ闘病生活を送っていた私が、人生の指針としてきたのが今日皆さんと分かち合いたい聖書の御言葉になります。

2025年 · 2025/03/31
このエルサレム会議は、当時の教会が「どの方向に進んでいくか」との議論の場でもありました。ここに出席した人たちは、それぞれ自分自身の主観や体験に基づいて発言したことでしょう。この会議では「異邦人は救われるためにユダヤの律法を守る必要はない」ことが結論付けられました。

2025年 · 2025/03/22
「律法を守り行わなければ救われない」という教えは、ユダヤ人にとっても重荷であり、苦しみの根源でした。なぜならば、律法というものは一つでも守らなければ、全部守らなかったことになってしまうからです。しかし、イエス・キリストの恵みによって救われるという福音が、律法という軛(くびき)から苦しむ人々を解放していきました。

2025年 · 2025/03/17
パウロとバルナバの約2年に渡る伝道旅行の中に神が共にいてくださいました。その結果、その地その地にユダヤ人だけではなく多くの異邦人を含む教会が誕生していきました。しかし、ある町でそのような教会ができたとしても、二人が次の町に伝道に行った後には、クリスチャンとなったばかりの弟子たちが不安の中で取り残されていたのです。

2025年 · 2025/03/10
ユダヤ人にとって「過ぎ越しの食事」とは、出エジプトの救いを記念する食事でした。半日後に十字架につこうとするイエスが、死ぬ前にどうしてもしたかったことは、弟子たちと過越の食事を共にすることでした。この命がけの食事を通じて、イエスは弟子たちに「この後にどんな困難があろうとも、必ず神の救いを見る」ことを信じさせようとさせたのです。

2025年 · 2025/03/03
「神は死んだ」とニーチェが記したように、20世紀には宗教が衰退し、いずれ宗教は無くなるのではないかと考えられていました。結果、人間の合理性を信じるシカゴ学派が隆盛を誇ることになりました。このシカゴ学派の人たち、エリートな方々には、「神は必要ない」のかもしれませんし、人間の行動はお金が決めていると思うかもしれません。

2025年 · 2025/02/24
使徒パウロとバルナバの言葉と、それを信じないユダヤ人の言葉のどちらが正しいかを巡りって、イコニオンの町は分裂していきました。そして、ユダヤ人の側についた人々は、間違っているように思えた使徒たちを暴力によって排除することを企てます。しかし、それを察知した二人は衝突を回避し、素直に賢く逃れて、次の宣教地であるリストラに入っていきました。

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