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説教要約22/8/7「弱さをかえって尊ぶ」

民数記11:24~29

Ⅰコリント12:14~26

「弱さをかえって尊ぶ」

 

 日本基督教団の暦では、8月の第1日曜日を「平和聖日」と定めています。77年前の8月に終わった太平洋戦争を抜きにして、私たちは平和について語ることはできません。あの戦争が生み出した「加害と被害」、「罪と痛み」、さらにこの教団が結果的には戦争に加担してしまったことを忘れないためにも、この日は平和を考え、祈り求める日にしたいと願います。

 

そのように戦争がない状態を平和と言うことができますが、聖書の語る平和とは、単に戦争のない状態だけを指すのではありません。「イエス・キリストの十字架により罪赦されたことを、私たちが信じることによって、神と人とが仲直りをする。その上で人と人とが仲直りをして、平和が成り立つ」という深い内容が聖書の中にあります。そして聖書のさまざまな所に、人間を平和に導く秘訣が書かれています。

 

 パウロがコリントの教会に書き送ったこの手紙にも、教会の中に平和をつくり出す秘訣が書かれています。パウロはその中で、賜物(カリスマ)という、神が一人ひとりに与える能力について語ります。それは皆に平等に与えられるものではありません。ある人はそれによって強く見えたり、またある人は弱く見えたりするかもしれません。しかし、それぞれの人が賜物を与えられ、それぞれの世界に平和をつくる為の役目が与えられているのです。

 

弱く見える人に対して、その人を覆う役目の人が必ずいます。弱い部分を全体の中で調和させ、溶け込ませて、見えなくする人です。弱さの為に苦しんでいる人がいると、神は他の誰かに対し、それを自分自身の苦しみと思わせて、覆う役目を与えるのです。

 

その意味では、弱く見える人もそれを覆う人も、それぞれに賜物を与えられ、役目を与えられた選ばれた人たちです。しかし、弱さのために辛い思いをしている人は、「そんな弱さをもつ者として選ばないでくれ」と正直なところ思われるかもしれません。しかし聖書は、「苦しんで夜も昼も叫び求めている人」のことをも「選ばれた人」だと語ります。その人も平和が実現する世界においては、神によって救われることを必ず体験していくのです。

宮本幸男

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