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説教要約22/9/25「繰り返し与えられる贈り物」

申命記15:4~11

Ⅱコリント9:6~15

「繰り返し与えられる贈り物」 

 

 当時、ユダヤ人が異邦人(ユダヤ人からみた外国人)を助けるということは考えられないことでした。またその逆もです。それはユダヤ人と異邦人との間に敵対的な関係があったからです。選民であると自覚していたユダヤ人から見れば、異邦人はみな真の神を知らない罪人でした。異邦人と付き合うことを禁止した掟さえあったほどです。

 

 この箇所は、エルサレム教会への支援をコリント教会にお願いするために書かれています。当時、ユダヤ人を中心に構成されていたエルサレム教会の人たちは、これまでのユダヤ人の社会から仲間外れにされ、生活に困窮していました。これを知っていたパウロは、エルサレム教会に募金をしてもらうために、一生懸命に各教会に手紙を書きました。そして、異邦人を中心に構成されていたコリント教会にも手紙を書き、どのような関係にあったとしても惜しまずにささげる贈り物の大切さを語ったのです。

 

 そのようなパウロが9章の最後で、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」と語っています。この言葉はギリシャ語の原文で読むと、誰が神に感謝しているのかよく分からないように書かれています。もちろん集まる募金の贈り物は、コリント教会の人々が送り、エルサレム教会の人々が受け取るものです。そして普通は贈り物を受ける人が感謝をするのです。しかし、この時パウロは別の意味で神に感謝することに気づきました。

 

つまりパウロは、自分は贈ったつもりでいたけれども、実は神から自分に贈られていた目に見えない贈り物に気づいて感謝をしているのです。またパウロのこの手紙での呼びかけによって、コリントの教会の人々も、神から自分たちへの見えない贈り物に気づいたことでしょう。すなわち、敵対していた異邦人とユダヤ人が助け合うというありえないことが起こっていたのでした。いつの間にか神が喜ぶ聖なる者とされていることに感謝、思いもよらなかった祝福に感謝をしているのです。

 

 現代に生きる私たちも、人の為に一生懸命やったことによって、自分は感謝される立場にいると思っていたら、逆にそこから元気とか力をもらっていたということがあるのではないでしょうか。その恵みに気づくか気づかないかで、人生の豊かさは大いに変わっていきます。

宮本幸男

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