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説教要約22/12/11「飛び込んで来られる神」

「飛び込んで来られる神」

ゼファニヤ3:14~18

ルカ1:5~25 

 

 祭司ザカリアに突然現れた天使のみ告げは、彼の息子の誕生と、救い主の到来を願う祈りが聞き入れられたことを知らせるものでした。しかし、自分たち夫婦が年老いていることを理由に、ザカリアは天使のみ告げを信じませんでした。彼は不信仰に対する罰として、口がきけなくなり、この時の祭司の重要な役目を果たすことができませんでした。さらに9ヶ月に渡って口がきけなくなる裁きを受けます。

 

けれども、それは神の裁きであるように見えて、実は彼にとって恵みとなりました。ザカリアはこの時、神の御前に一人出させていただいて、一対一の関係の中で神の言葉を聞くことになります。彼は沈黙の中で、自分に語られている神のメッセージを、ひたすら聞く恵みが与えられたのでした。

 

 ところで、いきなり神の遣わした天使が現れて香壇の右に立ったことは、ザカリアにとって想定外のことでした。恐れによって、祭司として重要な役目を果たすべき手順が、見事に狂わされてしまいました。本当はこの上ない幸いなことのはずなのに、まさに神が突然飛び込んで来たために困ったことになったのです。

 

私たちも自分のいつもの生活を突然乱されると困ってしまいます。たとえそれが大いなる存在であったとしても、自分の思いが邪魔されることを恐れてはいないでしょうか。しかし、そのような保守的な場所に、神の本当の喜びが入ってくることは難しいのです。

神の喜びの介入が、私たちの人生と、私たちの周りに生きる人の人生を革命的に変えていきます。それは自分の願いや計画を狂わせるような、歓迎できない出来事に見えるかもしれません。しかし、神ご自身が私たちをもっと愛したいと、一人ひとりの人生に飛び込んで来てくださるのです。

 

自分の思い描く理想の人生が、神によって妨害されたときに始まる豊かな恵みがあります。目に見えるところは悲劇だらけに見えることもあるかもしれません。しかし、神は私たち一人ひとりをどうしても愛したくて、この世に生んでくださいました。どのようなことが起ころうとも、その愛は変わらないことを信じましょう。

 

もしも起こったことの意味が理解できなくても、神にすべてをおゆだねするのです。その理由をいつか教えられる時が必ず来ます。そして、このアドベントの時は、神が自分に語られているみ言葉をひたすら聞こうとする時なのです。

宮本幸男

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