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説教要約23/1/8「究極のエネルギーの注入」

ヨシュア3:7~17

ルカ3:15~22 

 

 イエスは罪に生きる人間を審くために、この世界にやって来てくださいました。それは聖霊と火によるバプテスマを人に与えることによって、その人の罪を赦して救うためです。また、イエスはただ審く人ではなくて、審かれる人にもなってくださいました。イエスは十字架の上で、私たちの内にある罪を持つ古い人と共に審かれ、私たちを罪赦された神の子としてくださったのです。

 

 イエスは洗礼を受けた直後にまず祈られました。そこに聖霊が降り、父なる神の声がかかります。このときイエスは、これから僕となって奉仕をしていく人間としての力を聖霊から受けました。私たちの信仰生活も聖霊の助けなしには不可能です。私たちもイエス・キリストを信じたときに聖霊を受け、聖霊によって必要な力が与えられます。

 

この「まず祈る」というイエスの祈りの生活は、ルカ福音書の主要なテーマです。この福音書の中に八つのイエスの祈りの姿が描かれています。その最初が、この洗礼を受けた直後の祈りです。そして最後は、十字架にかかる直前のゲッセマネ園での祈りでした。イエスは重大な場面のその時その時に、父なる神の御心を求めて祈りました。そのようにイエスは、祈りを持って僕としての公生涯を始める力を受け、祈りを持って僕としての生き方を貫かれ、祈りを持って僕としての生涯を閉じられたのです。

 

 このイエスに起こった出来事は、洗礼を受ける私たちの魂にも起こる出来事です。聖霊によって私たちの中の古い人は死に、新たに生まれ変わります。その時に神の僕としての人生を歩むための究極のエネルギーが、私たちに注がれているのです。そのエネルギーの火は、洗礼を受けた私たちの中で永遠に燃え続け、決して消えることはありません。

 

ですから、もしも絶望の中で疲れ果て、救いの力が欲しいと願うならば、まず祈ってみることです。なぜならば、祈ることによって自分自身の内に燃えている聖霊の火が再び輝き始めるからです。私たちは祈り続けることによって、究極の救いの力をいくらでも得ることができるのです。

宮本幸男

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