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説教要約23/3/5「祈りにおける悪霊との戦い」

「祈りにおける悪霊との戦い」

創世記6:11~22

ルカ11:14~26

 

 いろいろな宗教というものが、私たちに「救い」を呼び掛けています。キリスト教の場合に救われているということは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けることにつながります。しかし、多くの人は聖書の中のイエスの姿に感動することはあっても、そこから一歩先に踏み込むことをしません。いろいろと理由をつけて洗礼を受けることをためらい、本当の救いを経験できずにいるのです。

 

 この時、悪霊に取りつかれて口のきけなくなっていた人から、イエスは悪霊を追い出して救ってくださいました。しかし、そのような救い主の姿を見ても、素直に受け取れない人がいました。ある人たちは、「悪霊の頭の力によって追い出している」と否定し、またある人たちは、「天からのしるしを見せよ」と証拠を求めます。けれども、イエスは彼らに特別なしるしをお見せにはなりませんでした。

 

 そしてイエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」と語られます。つまりご自分の味方をして一緒に戦って欲しいと、人々を招こうとされたのです。ある意味、救いを経験するということは、イエスを信じて洗礼を受けるとともに、「神の味方となって、共に戦う」ことなのです。

 

 では一体どうしたら、神の味方になることができるのでしょうか。そもそもこのルカ福音書11章はイエスが弟子たちに、「主の祈り」を教えられるところから始まります。そこから考えられることは、イエスに味方にすることは、まずそのような祈りをするということです。その最初の言葉は「御名があがめられますように、御国が来ますように」です。真の神があがめられることと、その支配を願い祈るところに、すでに神が私たちの先頭となって共に戦い始めてくださっています。

 

 それは私たちが、自分自身をコントロールできないような悪しき支配から解き放たれて、本当の自由を得るためです。誰であってもキリストを信じて洗礼を受け、祈りを持って神と共に戦うときに、本当の救いの喜びを味わうことができるのです。

宮本幸男

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